文政11年(1828年)11月12日朝8時ころ、信濃川流域の長岡・三条・燕付近に、マグニチュード6.9の直下型地震が発生しました。震源は栄町芹山付近とされ、被害は信濃川に沿う長さ25キロに及ぶ楕円型の地域で、三条・燕・見附・今町・与板などはほとんど全壊しました。死者1,500人余、全半壊21,000軒余、火災で焼失した家1,200軒余という大きな地震でした。
三条の被害が最も激甚であったことから「三条地震」と呼ばれ、江戸では地震を速報したかわら版が発行されました。この瞽女口説は、この大地震の災害にかんがみて、社会、世相の頽廃ぶりを揶揄、批判したもので、加茂矢立(やたて)新田の里正・斎藤真幸が地震の翌年に書きつづり、瞽女口説として刊行しました。これが諸方に伝わり、手書きして歌い、口ずさむ者もありました。
「越後三条良寛の道」にある東裏館の宝塔院境内には、被災者を葬った地震亡霊塔があり、市の文化財となっています。また、地震の惨状を聞いて良寛が、日ごろ親交の厚いこの寺の隠居隆全に宛てた地震見舞い状が、いしぶみとなって建立されています。
地震後之詩 日々日々又日々 日々夜々寒裂肌 漫天黒雲日色薄 匝地狂風巻雪飛 悪浪蹴天魚龍漂 墻壁鳴動蒼生哀 四十年来一廻首 世移軽靡信如馳 況■太平人心弛 邪魔結党競乗之 恩義頓亡滅 忠厚更無知 齢利争毫末 語道徹骨癡 慢己欺伊人称好手 土上加泥無了期 大地茫々皆如斯 吾独鬱陶訴阿誰 凡物自微至顕亦 尋常這回災禍尚似遅 星辰失度何能知 歳序無節巳多時 若得此意須自省 何必怨人咎天效女児 (東郷豊治編著『良寛全集』より 「地震後之詩」) |
来る日も来る日も、昼も夜も寒くて肌がやぶれるほどであった。空いっぱい黒雲が出て、陽の光もうすく、地面は暴風が吹いて、雪もとび散っていた。このときに大地震が起きたのである。 海の波濤は天をけるように荒れ、大きな魚も力なく、陸の家には柱も屋もゆれて鳴り、人はなげきかなしんだ。この四十年間をふりかえると、世の風潮は軽率にすぎた。久しく太平がつづいたので、人心はゆるみ、親切だった美風もうすれ、得をとる話だとわずかなことでも言いあらそい、人の道を悟ろうとする者など馬鹿扱いである。自分を傲慢に、他人を欺瞞するを世渡り上手と心得、いわば土の上に泥をぬりたくるようなもので、それがいつになってもやむけはいがない。地上どこを歩いてもこのありさま。自分ひとり階い気分でいるが、だれに訴えようもないかなしみだ。 万物みな眼に見えぬ小さなものがつもりつもってだんだん大きくなっているのが原則だ。むしろ、このたびの地震は、遅かったぐらいである。日月星辰の運行はだれにも気づかれぬうちに乱れてしまっている。四季のめぐりも節がなかった。天の戒めだ。どうして他人を恨んだり、天を咎めたりして女子供のまねごとをしておれようぞ。 (水上 勉著『良寛』より) |
三条の市(いち)に来て
ながらへむことや思ひしかくばかり変はりはてぬる世とは知らずて
かにかくに止まらぬものは涙なり人の見る目も忍ぶばかりに
(地震後七十一歳の老躯をおして三条まで足を運ばれた良寛の詠まれた歌)
タイトル 瞽女口説地震の身の上 / 泣和津地声太夫 [著]
ゴゼ クドキ ジシン ノ ミノウエ
goze kudoki jishin no minoue
著者/作者 斎藤 真幸, 1797-1859
サイトウ, マサチ
saito, masachi
内容等 請求記号:イ04 00600 0169
出版書写事項:[文政12(1829)] きまゝやひま右衛門, [出版地不明]
形態:1冊 ; 24cm
曲亭叢書
扉題:大字六行瞽女口説地震の身の上
識(朱書):著作堂主人(曲亭馬琴)
和装
印記:滝沢文庫
滝沢馬琴旧蔵
公開者 早稲田大学図書館
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