開帳参りの風俗見れば
旦那様よりお供が立派
それはまだしも大工の風儀
結城綿入れ博多の帯に
紺のももひき刺子の足袋で
朝遅うて休みが長い
作料増さぬは行く事なしの
酒は一日二度出せなどと天を恐れぬ我儘ばかり
日料取りまで道理を忘れ
普請家作のはやるにまかせ
出入り旦那も御無沙汰ばかり
下下は十日も先から頼む
やっと一日顔出すさえも
気げん取らねば半日遊ぶ
それに準じて町家の普請
三条地震と「瞽女口説地震の身の上」
文政11年(1828年)11月12日朝8時ころ、信濃川流域の長岡・三条・燕付近に、マグニチュード6.9の直下型地震が発生しました。震源は栄町芹山付近とされ、被害は信濃川に沿う長さ25キロに及ぶ楕円型の地域で、三条・燕・見附・今町・与板などはほとんど全壊しました。死者1,500人余、全半壊21,000軒余、火災で焼失した家1,200軒余という大きな地震でした。
三条の被害が最も激甚であったことから「三条地震」と呼ばれ、江戸では地震を速報したかわら版が発行されました。この瞽女口説は、この大地震の災害にかんがみて、社会、世相の頽廃ぶりを揶揄、批判したもので、加茂矢立(やたて)新田の里正・斎藤真幸が地震の翌年に書きつづり、瞽女口説として刊行しました。これが諸方に伝わり、手書きして歌い、口ずさむ者もありました。
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