特集:瞽女の旅路 ―「へんなか」第2号―所収 |
第一部/瞽女さへの想い
1914年生れ、新発田市在住、新潟県民俗学会常任理事、『瞽女の民俗』、『阿賀北ごぜとごぜ唄集』他
小林ハルさんに紙漉きの里への旅のことを聞くと、最初に想い出すのは、加茂在の紙漉きの里大谷を廻っていて、黒水の病院で肺炎で亡くした養女ヨシミ女四歳のことであるという…
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杉本キクイが亡くなったのはその前の年の三月の末日のことでした。「もう唄の文句を忘れてしまった。生きている甲斐がない」 ……… キクイにとって、人生の課題は麻疹で失明して瞽女の弟子となった六歳の幼い日からヒトコト(七五の一句)ずつ泣きながら教え込まれた瞽女唄を忘れないことでした。… →もう少し読む 1924年生れ、小国町森光在住、仏教史学会会員、『瞽女さは消えた』、『盲目の歌姫長岡瞽女』他
昭和四十年、みぞれの降りそうな田舎道を三人の瞽女さが手引きの人を先頭に歩いていました。ふるえる手でカメラをむけました。「どちらから来ましたか……」 「はあ……長岡の方から」 「寒いのに大変ですね……ご苦労さんです……さよなら」 「はあ……ごめんなさい」 旅なれた足どりで歩きはじめました。 「気の毒な人たちですよ」 亡き母のやさしい言葉がよみがえり、心は少年時代のしかも母のそばにおりました。 →もう少し読む 1931年生れ、東京在住、劇作家、『瞽女唄伝承』、『新作村芝居台本集』他
人口五十万の新潟市で、たった千枚の切符が売れないのなら、瞽女唄は滅びてもしかたないのだと腹をくくった。この五月の竹下玲子リサイタルの企画が、いよいよ本決まりになったときのことだ。竹下さんは無形文化財の瞽女、小林ハル師の弟子として修業を始めて十年になる。それをひとつの区切りに、と思い立った企画は難航した。瞽女唄などで客は呼べない、赤字になったらどうする、というのだ。… →もう少し読む 第二部/座談会
第三部/小説と論文
1940年生れ、県立柏崎養護学校教諭、
「北方文学」同人、『雪残る村』、『紙の匂い』他
『おが死ぬどき、紋付がないようじゃ、恥かくすけに』おタツさは、いうておりました。おタツさは、ちゃんと死ぬときの用意までしていたんです。 ……… ミチさんは、おタツ瞽女のことを一気にしゃべり終ると、しばらく、窓の外を流れる雲の方へ目をやってしばらく無言が続いて 「おが、おタツさについて、知っていることは、それだけです。あのおタツさに比べたら、おらの方が、よっぽどみじめなのかも知れませんて。こんなところへ入れられてしまって。」… →もう少し読む 1932年生れ、長岡市立博物館長、『伊平タケ聞き書 越後の瞽女』、『富士・御嶽と中部霊山』他
小国郷は、盲目の唄芸人ごぜが旅商売をするのに都合のよい土地であった。渋海川の中流域に開けた南北に長い盆地、その西山と東山の山麓段丘上に点々と集落がつらなること、人びとは淳朴で情けが厚いこと、常にはこれといって格別の娯楽がないことなどが、ごぜの歴訪を盛んにする要因となった。その多くは長岡系ごぜであったが、刈羽ごぜや三条ごぜも入りこんだ。ところで、小国には他所から大勢のごぜが陸続とやってきたが、地元にもごぜが幾多輩出している。… →もう少し読む 編集/「へんなか」編集委員会 |