出席者(小国町でごぜ宿をされてきた皆さん)
山岸 弘邦(千谷沢)
中沢 誠三郎(猿橋)
山荷 宝寿(小栗山)
青柳 喜作(桐沢)
佐々木 静子(猿橋)
桑原 ミチ(箕輪)
中村 勝治(猿橋)
小林 清(七日町)
竹下 玲子(ごぜ唄伝承者)
若林 一郎(編集部・司会)
小国を巡ったごぜとごぜ宿の人々
編集部 今回こちらでごぜ宿の座談会をやるということを「胎内やすらぎの家」という盲老人ホームにいらっしゃる金子セキさんに、お話ししましたら大変懐かしがっておられました。今身よりのないごぜさん方はこの「やすらぎの家」にいらっしゃるのですが、小国に来られたごぜさんでは、金子さんともう亡くなられましたが、中静(なかしずか)ミサオさんがいらっしゃいました。金子さんに「今度猿橋に行くんだよ」といったら、「あそこの家に言付(ことづ)けを頼む」なんて言われて来た程なんです。
先ほど竹下玲子さんのごぜ唄を聞いてもらったわけですが、竹下さんが「やすらぎの家」でごぜさんから聞いた話の中で一番印象に残ったというのは、「よく知らない人は『旅はつらかったろ』と聞くけれど私らは旅はつらいなんて思ったことは、一度もないよ、どこへ行ってもほんとに親切にしてもらったんだよ、お風呂だって一番先に入れてもらったし、御馳走も食べさせてもらったし、村の人たちが布団も無くて寝ている時だって、ちゃんと布団を敷いてもらってほんとにいい思いして泊めてもらったんだよ」と、村の人達に本当に親切にしてもらったんだと皆さんが声をそろえておっしゃるんだそうです。
今回小国町に来ましてこんなにたくさんごぜさんを世話していただいた方々が、いらっしゃるなんて思いもよらなかった事なんで、皆様から色々また昔の村の様子ですとか、ごぜさんはこうしてやって来たんだとか、思い出話をお聞きしたいと思っております。それでは最初に順番に自己紹介をお願いしましょうか。
山岸 千谷沢の山岸弘邦です。昭和十年頃からごぜ宿をやっておりました。六十五才です。
青柳 桐沢の青柳喜作です。七十六才です。
中沢 私はこの家(座談会会場)の中沢誠三郎といいます。六十五才です。
山荷 私は小栗山の山荷宝寿でございます。年は今年六十七才になります。三代に渡ってお宿をしておりました。
佐々木 私は猿橋の佐々木静子といいます。私の家も三代お宿をしていたそうです。年は六十才です。
中村 猿橋の中村勝治です。六十八才です。
桑原 箕輪の桑原ミチでございます。年は六十四才です。
小林 私は七日町の小林清と申します。年は六十六才です。私の家も大正時代から三代に渡ってお世話していました。
編集部 それでは、どなたからでも結構ですが昔のごぜ宿の話など聞かせていただけますか。
中沢 私の家でごぜ宿をやるようになったというのは、私の母が飯塚(越路町)という村の生れで中静さんと家が近かったという関係があって、声をかけたのがきっかけなんです。この部屋に休んでもらったこともあります。
佐々木 そうでしたね。中静さんは、三人でずっと私の家に泊っていたのですが、中沢さんの家に世話になるようになってからは、私の家に二人、中静さんはこちらにということになりました。
編集部 ごぜ宿をなさっていたという事は、御先祖の方が情け深い方だったとか、唄が好きだったというような言い伝えはございませんか。
山岸 特には聞いていませんでしたね。もう大体、宿は決まっていましたね。村に入ると朝のうちに、まっすぐその日の宿に来ちゃうんです。そして荷物をおろしてしまうんです。それから三味線だけ持って村の中を門付(かどづけ)してまわって夕方宿に帰って来るんです。
竹山 そうですか。重い荷物持ったまま門付は、できないですよね。
佐々木 それでね、宿が決まらないうちには、荷物を背負っているでしょう。そうするとあのごぜさんはまだ宿が決まっていないんだなという事がわかるんです。
編集部 なるほど見ただけでわかるんですね。
佐々木 うちは代々、犬を飼っていまして犬までごぜさんを知っていました。猫までもね。ごぜさんがまたたびの乾燥したのを袋に入れたのを持って来るんです。
竹下 あらら、そりゃ猫も喜びますよね。すぐ憶えちゃう。(笑)
青柳 中静さんは私と同じ年だったんですよ。私の小学校の頃からずっと金子さんと私の家に二人でいつも泊まっていました。その日の都合で泊らなくていい時は「お昼宿」に村の中を回っては、寄っていました。そうですか。中静さんもう亡くなられたんですか。
竹下 ええ、もう五年以上前になりますね。金子さんは大変元気でいらっしゃいます。
山岸 ごぜさんの記憶というとやっぱり戦前の貧しい時代の記憶の方が強いですね。
編集部 その頃の話を聞かせてもらえませんか。
山岸 そうですね。学校から帰って来ると、玄関に荷物があるわけですね。それで「ああ、今日はごぜさんが泊まったな」とちょうど家にお客が来たように子供の事だから喜んだもんですよ。そうするとお袋が「おまえいい子だからあたり近所にごぜさんが泊まったから聞きに来るように言てこい」と言われたもんです。
編集部 なるほど、それでお使いにまわるわけですね。
山岸 そうなんです。そうするとお袋は今度は、昔の事ですからいろりでカラカラとあられを妙って、夜来るお客さんのお茶菓子を、作るんです。
竹下 ああ、あられを妙ってお茶菓子を、なるほどねぇ。
山岸 そしてまぁ、夕飯が終わると、お客が、ポツポツ来るんです。そしてごぜさんの唄が始まるとね、みんなじーっと聞いているんですよ。テレビもラジオもない頃だから、まあ本当にごぜさんの唄というのが一年に一回あるいは、二回のね、農村の娯楽だったですよ。
戦争中になって、お互いに食糧がなくてもね。ごぜさんが来ると言えば、無理してもごぜさんに食べてもらったですね。
編集部 なるほど。
山岸 衣料がなくてもごぜさんの布団というのは、年中上げてしまっておいたもんです。
編集部 ごぜさん用の布団がちゃんとあったわけなんですね。
山岸 そう、「ごぜ布団」というのがあったんです。
編集部 そうですか。「ごぜ布団」。それは他の皆さんのお宅にもありましたか。
佐々木 はい、ありました。それでもね、ごぜさんはね、自分の枕と小布団だけは、持って歩いていましたね。
竹下 あのね、それはもしかして迷惑をかけてはいけないからということなんだそうです。だから持って来た小布団をそこのお宅の布団の上に敷いて、休まれたんだそうです。
編集部 なるほど。
桑原 ごぜさんが私の家に最後に来たのは、昭和五十一年だったと思います。といいますのは、その年家を新築しまして、それで秋泊まられたんですがその時は中静さんお一人でした。連れの方はその時はもうその施設へ行かれた後でした。
編集部 そうですか。では金子さんが施設の方に入られた後だったんですね。
桑原 そうですね。それで中静さんが言うには、「家の人は施設に行くなというけれど、いい所だから行こうと思っている」と言ってごぜもこれが最後だろうと言っていました。それで私の家に来たら新築してありましたんで、自分の事のように喜んでくれました。そして「おれもこれで安心して施設へ行かれる」なんて言っていました(笑)。
編集部 そうですか。
桑原 それとよく田んぼから暗くなって私が家に帰ってきますとねぇ、ちゃんと雁木(玄関)に腰かけてもう自分の家みたいにして待っていましたですねぇ。それで私が、「ごぜさんあっだぜ、何もねえぜ、おら、これからご飯しっがだがんに」と言うと「ああ。いっこ、そっでいい、おら雑炊(ぞうせ)でもいいし、何でもいいすけに」なんてねえ言っていました。まあほとんど毎年、春と秋に来られましたねぇ。
青柳 ごぜさんも私の憶えている最初の頃は、あの桐油合羽(とうゆかっぱ)というのを着て、まんじゅう笠というのをかぶってね、足袋の上に草鞋ばきでしたね。最後はゴム靴になりましたけれど。
小林 まあほとんど草鞋でしたね。それで足袋を洗濯してさし上げると朝喜んで履いていかれるんですよ。
それと私の村は大体、三軒ぐらい指定の宿があったんですよ。親方、手引き、金子さんとそれぞれ決まっていて、もし都合の悪い家があるとまた予備の宿が四・五軒ありました。
編集部 そうですか。予備の宿があるんですね。
小林 ええ、そしてごぜ唄は、夜寝る前は、近所の人が、聞いたし、朝出発する前にも唄ったんです。
編集部 ああ、出発前に唄をね。それが立唄(たちうた)ですね。
小林 ええ、それと一番感心したのは目が見えなくていらっしゃるのに家の中の様子をすっかり覚えているんですね。
私も途中で家を新築したんですが、一度家をご案内するともう風呂場でも勝手場でも炊事場でもちゃんと覚えてしまうんですね。
それと家族の名前や年令やどこに行っているとか覚えていて半年位、来なくても話題がつながっていってしまうんです。ほんとに記憶のよいのには驚いてしまいました。それから朝お弁当を持って出るんですが、それがご飯だけなんです。
竹下 ご飯だけなんですか。
山岸 そうなんです。お昼を食べる宿がまたあってそこでおかずとお汁が用意してあるんです。
編集部 お弁当は確か柳ごうりみたいのですよね。
小林 それから自分の荷物の中からきざみタバコとキセルをとりだすんです。荷物の方向でどこに何が入っているか全部わかっていらっしゃるんですが、だいたいどなたかしらタバコを吸われるんです。そしてきざみタバコをこぼさないで上手にキセルにつめるんですよ。それである時なぜタバコを吸われるのか聞いたんです。ごぜさんは、旅の途中山の涼しい所やお堂なんかで休むことがあるんです。ある時休んでいたら蛇が荷物の中に入ってしまったんだそうです。それに気付かず夜宿で荷物を開けたら中から蛇が出て来たんだそうです。それ以来蛇の嫌がるものということで吸っても吸わなくてもタバコを入れるようになったんだそうです。
編集部 なるほど。それは始めて伺いました。
編集部 ところでこの辺では、門付唄はどんな唄を唄ったのでしょうか。
中沢 そうですね。「おはら節」でしたね。
竹下 ああ、そうですか。金子さんが得意だった唄ですね。「花は霧島……」という唄ですね。
小林 それからあれは「飯塚音頭」でしたかね。「サササ飯塚へ……」というような唄でしたが。
編集部 金子さんは今も飯塚音頭唄ってますかね。
竹下 金子さん、ちっとも唄わないの。(笑)。「おら忘れた、おら知らね」ばっかり言ってんの。(笑)
中沢 先程の竹下さんのごぜ唄も本当にごぜさんに習ったご立派なお声でしたが、ごぜさんの声も確かに低い声でしたが、良く通りました。竹下さんより年もとられていたので低い声だったんでしょうがさびのある本当に独特のあれはごぜさんの声でしたね。
小林 そうでしたね。そしてそれがまた三味線と良く合うんですよね。
佐々木 そして「葛の葉子別れ」にしても哀愁があるというのか涙が出そうになるんです。私の一番下の子で「省三」という子が小さい時、ごぜさんが唄っていると「その次はどうしたい、その次はどうしたい」と言いましてね。(笑)もうごぜさんも疲れているから休んでもらえと、言っても、次々とせがんで唄ってもらってました。
編集部 それはいくつ位の時ですか。
佐々木 四才から五才位だったですね。
竹下 あら、そんなに小さかったのにですか。
佐々木 ええ、それでごぜさんは家に来ると「ごめんなさんしょ」と言わないで「省三さんいたかい」と言って入って来るんですよ。(笑)。
編集部 それはかわいいですよね。ごぜさんもそんなにちっちゃいのに一生懸命聞いてくれれば。
小林 それから確か「太夫と才蔵」というのがありましたね。
編集部 ああ万才ですね。
佐々木 そうそう、掛合(かけあい)みたいな威勢のいいのでしたね。
編集部 それは竹下さんもやりますよ。
竹下 じゃあ金子さんもやっていたんですね。全然言わないし、知らん顔してんですよ。(笑)
編集部 やっぱり、語り物は「葛の葉子別れ」が主だったでしょうかね。
佐々木 頼まれて唄うのは、大体そうでしたね。他には「俵積み唄」でしたか、「めでたいな、めでたいな……」とかいう唄でした。
竹下 ああ、金子さんはそれを民謡集の中から出して来て一生懸命聞いていますよ。その中に「大黒舞」なんてのもありましたね。
佐々木 それもめでたい唄だから一度は唄っていました。
竹下 金子さんに「何回も同じ唄聞いてるね」と言ったら「おらこの唄好きなんだ」って言うの(笑)。
編集部 それは金子さんが自分でも唄ってたからだ。
竹下 唄ってたのね。でも唄ってたとも何とも言わないの(笑)。
山荷 その唄は私も覚えています。私の家は小さいお寺なんです。それでお寺と住家の間で養蚕をやっていたんですが、ごぜさんに本堂に行って泊まって下さいと言っても、その蚕のそばでいいと言うんですね。そこで「俵積み唄」を唄ってもらったことがあります。
編集部 あの蚕さんにごぜ唄聞かせると良く育つという話がありましたね。
山荷 ええそれでね、蚕棚のすぐ横に座って唄ってもらいましたね。九月頃で蚕は秋蚕(あきご)の頃でしたね。それから当時まだ親父が草鞋を作っていましてね。翌朝ごぜさんが立つ時に渡してやっていました。
竹下 ああ、なるほど。それは何よりだったわけですね。
編集部 やっぱりごぜさんが来るのは年二回位だったでしょうか。
中沢 ええ、春と秋の二回でしたね。となりの越路町から小国に入って小国をぐるっと回ると、今度はまたとなりの鯖石の方へ行くというコースで毎年ほとんど決まってましたね。
竹下 来る日も大体決まってたんですか。
中沢 一日か二日の違いでほとんど決まってましたね。そろそろ来る時期だと思うと間違いなく来るんです。
小林 人がもう教えるんですね。どこどこでごぜさん見たよというと、ああ、もう来るなと思って準備しているんですよ。
編集部 なるほど。
小林 それからごぜさんは、三味線を非常に大切にするのですね。それで預ると私ら必ず床の間に置いておくんです。
竹下 そうですね。三味線は皮も破れやすいし、壊れやすいですから、家に子供がいたりすると危いもんですから、一番安全な所に置きたいと思うんですね。床の間って一番安全なんですよ。(笑)。
佐々木 三味線は必ず絣の袋に入れてましたね。久留米絣のね。
小林 それに油紙の袋をかけてね。特に雨の日は幾重にもね。それを桐油合羽(和紙に桐油を塗った雨具)の中で弾くんですよね。
竹下 濡らさないように気を付けてですね。気を付けないと皮がね。湿気でピーンとナイフで切ったように割れてしまうんです。
山荷 私の祖母も母もごぜさん迎える時は、まず三味線を受け取って物があたらない所に置いてから「お入り下さい」と言ってましたね。
佐々木 子供には絶対三味線預けなかったですね。持っていこうとすると「子供はだめだ」ってね。
編集部 ごぜさんに新しいはやり唄なんか聞かせてもらうことは、ありましたか。
佐々木 ありましたね。例えば「お富さん」なんかも唄いましたよね。(笑)
中沢 そうそう、あの当時はラジオもテレビも無かったでしたから、ごぜさんは、当時は文化交流の最先端を行ってたんですね。
佐々木 でも絶対他の家の話はしませんでしたね。その点は本当に感心しましたね。
山岸 昨日の宿の話もしませんでした。今日始めて、例えば小林さんの家もごぜ宿だったのかとわかった程ですから。昨日の宿はあそこの村だった位は話しますけれど、家までは話さなかったですね。
編集部 なるほどそうですか。他の家の話はしなくても、例えば村の出来事なんかの話はどうでしたか。
山岸 そうですね。どこどこのお婆さんが、亡くなったとかその位のことですね。
編集部 旅の途中の話なんかはどうですか。
佐々木 犬に追いかけられて恐ろしかったとか、あるいはおもしろかった話なんかはされましたけど。
編集部 なるほど、ところでこの地方で初めて聞くような唄はなかったですか。
山荷 そうですね。「鹿児島おはら節」なんか聞いたことがありますね。
小林 「たんこ節」なんかもね。それからこの唄をくずしてね。替え唄みたいにして唄ったのも聞きましたね。
「お顔見たければ、お写真で。声を聞きたければ、お電話で。こんな便利な世の中に会わなきゃ出来ないこともある」ってね。(笑)
桑原 おどけ唄もたまにはあったですね。
編集部 そうですね。鴨緑江節(おうりょっこう)の替え唄なんかも聞くとおもしろいですよね。
編集部 それからごぜさんの来た夜というのは、村の人達もいっぱい集まったんでしょうか。
中沢 そうですね。私の知っている最初の頃はいっぱい集まりましたね。でも最後の頃になると、私の家でもあんまりにぎわわなくなった日が多かったんです。それでね私がごぜさんに、「誰も来ないのにわざわざ唄わなくてもいいんじゃないですか」と言いますと、「いや皆様にお聞かせするためだけの芸ではないんだと、泊めてもらったお礼といいましょうか、この家の先祖様に対して私は、申し上げるのですから、どなたが聞いておらなくても私は唄います」と言われて誰も聞き手がおらなくても唄われたことがあります。これには私も恐れ入ってしまったものです。
編集部 なるほど、そうですか。
小林 それから万才なんかおやりになるにも、家の吉兆ですからひとつやらしてもらいますと言って必ずやりましたね。ラジオやテレビなどが普及してきてからも、ごぜさんは「テレビやラジオで、もうあれですけれども(めずらしくもないでしょうが)ひとつ家の吉兆ですので……」といって始めるんです。始まるとやっぱり聞いている人もあれもこれもと注文するわけなんですよ。佐々木さんも先程言いましたけれど、子供たちが次々とせがんだりすると、親の方で「ねら、まあそれ位にしてこぜさんも疲れているから休んでもらえや」と言ってやっとおしまいになるんです。
編集部 戦争中の食糧難で、ごぜさんの旅が難しくなったということは、なかったのでしょうか。食糧統制でお米をあげるわけにはいかなかったとか、ごぜさんがお米持っているとお巡さんにつかまっちゃうとか―。
小林 多少あったかも知れませんね。
中沢 でもまあ、農村はお米をあげましたね。ごぜさんには御法度(ごはっと)と言いましょうかね。
編集部 ああ、そうですか。
小林 またね、ごぜさんが門付でいただいたお米は、店なんかに持って行って買ってもらうんです。お店はお店でそのごぜさんのお米を買ってもらう家が決まってたんです。
それでね、店で米を買ってもらう時、桝で量るんですが、ちょっと足りなくてもおまけするんです。そしてごぜさんの袋の中には、少しお米を残すんです。それを次のところでまたお米をいただく種にするんです。
編集部 ははあ、なるほど。
小林 それでね。ごぜさんのお米というのは苦労して集めたものだからそれを食べると家中みんなが健康でいられるといわれていたんです。
竹下 皆様の好意がつまっているということなんですね。
小林 ええ、そういう事でごぜさんのお米だったら、また欲しいという人があるんです。
編集部 ほう、ほう、なるほどねぇ。
小林 ですから、ある程度袋が重くなるとお店や、毎年買ってくれる家で「ここのひとは今年はお米どうですか」「あったらわけてくんねか」というように店や田んぼをやっていない家では、ごぜさんのお米を待っているわけなんです。
竹下 なるほどねぇ、ごぜさんたちは、「混り米ですけえー」
とか言ったんだそうですね。
小林 ええ、そう言って遠慮します。だけどそれが欲しいんですよ。(笑)
編集部 若いごぜさんが来た記憶はございませんか。
山岸 私はあんまりないですねえ。
中沢 今のごぜさんも昔はみんな若かった。(笑)
竹下 そりゃあそうですね。(笑)
中沢 ごぜさんも代継ぎがなくなったというか、社会福祉が進んだということなんでしょうね。
山岸 門付をされたというのは、中静さんと金子さんが最後でしたね。その後は新しい人は見なかったですね。
青柳 あの人たちは私たちが子供の頃は、赤い脚半をはいていましたね。
編集部 赤い脚半ですか。
山岸 ええ、若かったですからねえ。(笑)今から五十年も六十年も前の話です。
中沢 他にもその頃確か若かった方が来られたようですけれど、どういう訳かわかりませんが長くは来なかったですねえ。
佐々木 元禄(元禄そで)の中へ真赤なほつき(ほほづき)をいっぱい入れてね、芸いごぜさんがそれを鳴らして来たのを憶えてますね。
山岸 手引きの人もその時はちっちゃい子供でしたから、ごぜさんの言うとおり歩かなくてね。(笑)
自分の好きな方に行っちゃうんですよ。(笑)
編集部 なるほど、子供だったらそうですよね。(笑)
山岸 でも、それがごぜさんには解るんですよね。手引きに「おまえ、今日はあそこ回らなかったねか」と夜、宿でおこられているんですよ。(笑)
青柳 この部落は何軒くらいあるのかというのがごぜさんには、わかるんですね。
佐々木 私の持って来た写真にも今の話の人ではないですが、手引きの方が写ってますけれどその方が一番長かったですね。
編集部 金子さんが始めて小国へ来た時は十四才の時で、それが初旅だったそうですね。
青柳 そうです。私の家に初めて泊まったのも十四才の時でした。
竹下 ほんとにまだ娘の頃だったんですね。
青柳 そうですね。その頃生まれた人がもうお婆さんになってますから。(笑)
中沢 ところで竹下さんの師匠でもある小林ハルさんは、三条の生れだったんですか。
編集部 ええ、三条で生まれて三条で修業されたんです。師匠は三条の方に付いたり、地蔵堂の方に付いたこともあるんだそうです。一人前になってからは、米沢方面を回っていらっしゃったそうです。
中沢 三条の中の川は五十嵐川でしたかね。
竹下 そうですね。でも地蔵堂の所になると信濃川ですね。
編集部 小林さんのお宅は、信濃川のそぐそばのかなり大きな農家だったと聞いています。
小林 やっぱり家が裕福であってもごぜさんになられたんですねえ。
編集部 そうですね。やはり一生のことを考えると家にずっといるよりは、芸で身を立てた方が、いいという事でやられたんでしょうね。
小林 一回旅で回ると、もう回らないでいられないと言ってましたね。
中沢 だから中静さんが施設の方に行かれるにあたってもずいぶんつらかったのではないでしょうかね。本当は中静さんにしてもまだまだ旅を続けたい気持ちがあったでしょうね。
編集部 ああ、そうですか。
中沢 まあ社会福祉も進んだ訳ですので、そうばっかりもいかなかったでしょうが。
竹下 社会福祉とはなんでしょうね(笑)
中沢 それは私にも解かりません。ただ福祉の時代にごぜさんというのもどうかということで、福祉関係の方のすすめもあったんでしょうね。
山岸 毎日旅をしていた人が、急に施設に入ると、本人もちょっと大変だったかもしれませんね。
竹下 ごぜさんとして仕事をさせてもらっていた方が、どんなにか生きがいがあって、もっともっと元気で唄っていたという気もしますね。
中沢 そうですね。もしかしたら歩けるまで歩いていただいた方があの方々にとっては幸福だったのかも知れませんね。
竹下 私もそうだと思います。
編集部 「ごぜさんとにわとりは一生唄わんなんね」という諺ですがあるんだそうですね。(笑)
佐々木 今度あれですね。ごぜ宿をやられてた方でまとまって慰問に行ってもいいみたいですね。
編集部 そうですね。ぜひ行ってやって下さいまし。金子さんなんか懐しがるでしょう。
竹下 きっと話の弾むことでしょう。(笑)
編集部 さて、本日は、長い時間ごぜ宿の皆様から大変貴重なそしておもしろい話をいっぱい聞かせてもらいましてありがうございました。それではこれでごぜ宿座談会を終わらせていただきます。
1988年6月17日 於 小国町猿橋、中沢誠三郎宅
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