出席者
小林 ハル(長岡瞽女・三条出身)
杉本 シズ(高田瞽女)
金子 セキ(長岡瞽女・越路町出身)
田中 キサ(長岡瞽女・小国町出身)
近藤 ナヨ(小林ハルの弟子・下田村出身)
山田 静子(小林ハルの手引)
※以上、胎内盲老人ホームやすらぎの家入所者
竹下 玲子(ごぜ唄伝承者)
玲子 いま、昔瞽女をやっていたひとは、みんなこの老人ホーム“胎内やすらぎの家”に集まってるでしょ、長岡の瞽女さも、高田の瞽女さも、みんな仲よく、ね。
そこできょうは、お茶でも飲みながら、昔の旅の話をしてもらいたいんだけど。新潟の小国町の人たちが、その話を、雑誌にのせたいんですって。金子さんは、あのへんよく歩いたんでしょ?
セキ ああ、おらいってるよ。一年に二度も三度もいくよ。ずーっと回って歩いて、秋にいちど家へ帰ってからも、雪が降らねとまたあそびにいったもんだ。あのへん歩いたのは、十四のときからだもの、六十年になるな。
ハル おら、小さいときいちど、師匠につれられていったども、あまりよくおぼえてねぇ。山野田ってとこがあるろ、あそこで、唄うて、米の代りに紙もろたのは、おぼえてる。ちゃんと水引きかけた紙。
玲子 それは、いくつぐらいのとき?
ハル おらが三味線買うてもろたの、十二の年だから、そのくらいかなあ。その三味線は、胴のとこ紙貼ってあったんだ。皮の代りに。
玲子 へぇ、紙貼りの三味線なんてあったの。
ハル 皮だったら、破けたらすぐ直せねえろ。紙なら、貼りゃええもの。山野田の紙あ、丈夫でよかったんだ。
キサ おら、生まれは小国町らろも、山野田にはいちどいっただけら。柏崎の方から峠こえて。えらいさびしげなところだと思ったもんだ。ふだんはおら、中魚沼の方を回ってたんだ。
ナヨ おらは、小林さんが師匠で、いっしょに山形の方回ってたから、新潟の小国町は知らねえな。
静子 おらが手引きして、小林さんやナヨさんと回ってたんだよ。
玲子 だから老人ホームでまた一緒になっても、三人組になって歩いてるんだ。杉本さんは高田の瞽女だから、小国町は歩いてないでしょ?
シズ ええ。おらたちは西頸城の能生町の方へね。四月と九月にいくの。あとは東頸城の松之山の方へ六月と十月にいってね。あとはお盆のときに、信州の方をあるくことにしていたの。
玲子 よく、瞽女っていうと、アテもなくフラフラとさまよって歩いてたように思われるけど、ちゃんと歩くコースは決ってたのね。いわば、年二回の定期公演をやっていたんだ。
セキ そうだよ。瞽女宿の衆のことなんか、なまじっかな親類よりよく知ってるんだよ。年二回、ちゃあんと顔みせるんだもの。
玲子 ところで、そうやって旅してあるいてて、つらいことってどんなことだったかな。
シズ つらいことって別にないけれども、犬と子どもはイヤだった。でっかい犬、しばってなくて、放してあると、怖くって。子ども生んでいる犬いるんだわ。あれ、私らみると、杖もっているでしょ、叩かれると思うのか、子ども盗られると思うのか、こっちはでっかい笠かぶってるしねぇ、ひとと違うから、吠えて吠えて。
ナヨ おら、足かまれた。近所の衆が、かわいそうだって、米噛んで焼酎とまぜたの、つけてくれたけど。
ハル 犬にゃ、みんな噛まれたもんだ。
シズ だから、石拾って、投げてやるの。「そんなことするから、犬が吠えるんだ」っていうけど、おっかなくて。
ナヨ おらも犬がいなきゃいいなあ、いなきゃいいなあと歩いてた。
シズ それから、信州の子はイタズラでイタズラで。ついてきてはやしたりするだけならいいけど、石投げたりするんだよ。
セキ 新潟の子はそんげにわるさしなかったども、やっぱり、はやしたりはしたな。「ごぜ五合(ごんご)、座頭(ざと)一升」なんてな。
シズ あんまりひどいんで、母ちゃん(養母のキクエさん)が、学校へ文句をいいにいったことがあった。地下足袋のまんま、廊下ヘズカズカあがってってね。「何しるんだ、きれいに掃除したとこ」っていわれたけど「あんた方こそ、子どもに注意したらいいだろ」って負けていなかった。
ハル そこへいくと、米沢の子は甘やかされていねかったな。村を回ってても、おらたちちょっといっただけでは分らねぇ、奥の方へ入った家があるろ、そういうとこ「あねちゃ、こっちにも家があるよ」いうて、すっかり一緒になって、教えて回ってくれたもんだ。そんなときゃ「ばんげにおもしろい歌聞かせるからこいよ」いうと「ハイ」いうてな。雨が降ると、「あねちゃ、橋が流れていかんねぇから泊まってけ」なんていわれて。
静子 そういうときは、昼間なにもしることがないろ。「あねちゃ、どこさでもいってあそんでこい」なんていわれて、子どもとくっついてあそんであるいて、あとでおこられた。
ハル また、このひとはどこへいっちまうんだか、鉄砲玉だもの。(笑い)
セキ 昔の小国町といえば、ほんとに山ん中だな。橋なんぞはべト(土)の橋だ。土橋といって、橋の上に土かぶして、平らにしてあるんだ。吊り橋もあったよ。針金で吊ってあって、ブランブランとゆれるんだ。おら小さいときゃ、そういうのばっか。丸太橋なんていうのもあったな。雪が降って、風がふいたときなんぞ、這うていった。
キサ おら橋はキライだな。荷物負(ぶ)って、川渡るの、おっかなかった。
ハル 山形の小国回りしるときも、そんげな橋渡らねば行けないとこ、いくつもあった。柴橋というての、木の枝、ところどころに渡してあるだけの吊り橋があった。
ずーっと下の方から、谷川の音がゴオゴオと聞こえて、ユッサユッサ揺れるし、どこ足おろしていいかわかんねえから、さぐりさぐり渡るんだ。いくらおっかなくても、その橋の先に待っててくれる衆がいるもの、家は五軒ぐらいのとこらったろも。
やっと渡って、やれ、よかったと思うてると、うしろの方で「姉さぁ、おらおっかなくて渡らんね」って、手びきがよんでるんだ。おら目え見えねえから、渡ることだけ一所けんめいだ。手びきは目が見えるろ、おっかなくて渡れね。それで、その一人の衆にいうてやったんだ。「この村にゃおかしげな橋がある」って。「盲が渡れて、目あきの渡らンね橋がある」(笑い)
シズ おらのおっかさんの若いころに、そんな橋で死んだひとがいたって。ムカデ橋って、木の杖をね、横に何本か渡して、なわでしばった橋があったんだよ。
そのひとはキクといって、まだ小さい手引きで、目少し見えんだってさ。だからはじめは「おもしえなぁ」って、渡ってたんだと。ところが、あとちっと渡りきるってときに、川に落ちたんだね。ちょうど春の水でているときでさ、そのまんま流されてしまってさ。
川下にいるひとが死体あげてくれて、焼場で焼くときに、親方が抱きついてさ「キクやぁ、キクやぁ」というて泣くと、「ハーイ、ハーイ」って、どっからか死んだ子の返事が聞こえんだとさ。
ハル 山形の小国でも、川渡ってて死んだひとがいる。沢沿いの道で、なんども川を渡ってあるくとこらろも、ふだんはなんの雑作もねぇんだが、雨ふってて、足すべらせて転んでしもうたんだな。
瞽女宿の衆が墓つくってくれてて、そこ通るとき、お参りしたもんだよ。だから、川流れで死んでも幸せもんだ。村の衆も墓参りしてくれるし、回ってくる仲間にも拝んでもらえるし。
キサ 川で転んだぐらいでっていうけど、荷物いっぱいしょって、米の一升もしょってるだもん。なかなか起きらんねで、溺れちまうんだな。
シズ でも、小さいとき、川のそばへいくと村のひとが「負(ぶ)ってやるぞ」っていってくれるの、あれうれしかった。「また川へいきゃいいなあ」と思って、歩いてた。(笑い)
ハル ほだな。おらも山あるきは好きだった。さあっと風吹いくると、気持ちよくて。
キサ でも小さいときはおっかなかったんだよね。山へいくとネ「ぐずぐずしていると、ここにおいてゆく」といわれて。ほんとに置いてはこないけど、おら、あれがやだった。
ハル だからおら、山では弟子(こども)にそっげなことはいわなかったね。通る人が聞いているかもしれねぇもの。
玲子 それじゃ、こんどは旅の楽しみを聞こうかな。
シズ そりゃあなんといっても、待っててくれる人たちがいてくれるってことさね。子どもが帰ってくるとおなじことだもの。
宿に着きゃまっ先に「風呂に入ってくれ」って。「いえ、私らが先に入らねで、男衆が先に入ってくんなせ」っていっても「あんた方のご馳走にたてたんだから、遠慮するな」っていわれてねぇ。
ふとんだってもったいないようなふとん。
玲子 私のお母さんなんかでも、長崎の田舎なんだけど、小さな頃にはちゃんとしたふとんには寝てなかったって。瞽女さを泊めるような家は、いい家だったのね。
シズ そりゃやっぱり中から上の家。でも、それよりありがたいのは、泊めてくれるひとの気だもの。どんなお金持ちだったってケチにする人はあるでしょう?
セキ そうだね。おらも宿では苦労したり、せつないめをみたりしること、なかったね。子ども衆なんか「おらどこの瞽女さ来た」っていうてくれる。うちの衆も「何日(いつか)も待ってたぞ」なんてね。そりゃあ魚沼でも、刈羽でもおなじだったね。
ハル ああ、子ども衆が「ばっちゃ、おらどこの瞽女さ来た」ってねえ、あれ聞くの、うれしいもんだった。
山形では、家のいちばんの奥にある、床の間つきの部屋に泊めてもろた。ふとんだって、お客さま用のいちばんええの、出してきてくれて。朝、いくら早く出るときでも、ちゃあんと弁当にごはん詰めてもたせてくれて、それが決まりになってるんだ。
汚れた脚絆なんぞも「私が洗いますけ」といくら遠慮しても持っていってちゃんとしてくれるし、わらじも「瞽女さまが来ると思うてこしゃいといた」って、新しいの、ちゃんともたせてもろて。それはよくしてくれたもんだ。
玲子 何人か組になって回ってる人たちが、みんなひとところに泊るの?
ハル それところによってちがうね。一緒にとまるときもあるし、一人ずつのときもある。だども、泊まるとこはいちど泊まったら、それからずーとおなじだ。
玲子 じゃあ、すっかりおなじみになるわけだ。
ハル そらそうだ。初めて泊ったときは、小さかったすけ「おねしょしねか?」なんていわれてやだったども。
シズ 松之山ってところではね、ひとりずつわかれて泊まるの。私なんか、いつも母ちゃんと一緒だったでしょ。それがひとりにされて、さみしかったね。
信州なんかでは、蚕室ってあるでしょ、そういうとこ貸してくれて「あんたがた、好きなようにして泊まっておくれ」っていわれて、自分で米炊いて泊まったり、そういうこともあったね。それで「ウチでとれたササゲもあるし、オイモもあるから、お汁にして食べてくれ」って、わけてくれる家もあったりね。
セキ 魚沼や刈羽では、そういうことねぇな。ごはんは宿の衆がちゃんとしてくれたね。ただ、場所によって違いはあったね。刈羽の衆はなんでも忙しいんだ。夜は暗くならなきゃもどってこねし、朝ぁ暗いうちから出てってしまう。魚沼は働きはそれほどねえども、気い使うこたなかったね。刈羽だと、宿へついても「いま山へいってるすけ」なんて、待たねばなんねぇこともあるし「子どもが病気でねてるんだんが、すまねぇがよそへいってくれ」ってこともあったども、魚沼ではそんげなことはなかったね。
山崎新田なんていうとこ、いつも宿にしてる家があったけど、そこへ行こうと思ってたら「あそこのオジンが選挙に入って、きょうは客がいっぺ来るすけ、いっても泊まんのはムリだ」っていわれたんだ。
それでも村へ入って寄らねぇわけにはいかねぇんだんが、寄ったら客が多勢いて「ゴゼンボさ、来たぜ」っていう。「きょうは泊めてなんかもらえねぇども、寄るだけよった」っていうと「バカいわっしゃい。お客があって、ご馳走があっていいろ」っていってくれた。あんときゃあうれしかったね。
ハル 旅の楽しみといえば、山形の赤湯にいったときに、あそこは温泉で、湯治場だすけ、部屋かしてくれるとこがあって、そこに弟子(こども)らと一緒に泊まったもんだ。ほうして、ごはんなんかも、自分たちの好きなもの作って、ええ案配にして食べて。のんびりとお湯につかって―。
玲子 ああ、そりゃぁ気がねがなくっていいわね。
ハル んだ、それで、あのへんにゃ芝居がかかるんだ。それら弟子(こども)ら連れていったりして。弁当もって、桝(客席)買うてな。
ほうしると、隣の衆が「瞽女さ、お前さんたち、目が見えねぇのに、芝居なんてみて分るか?」っていう。「へえ、わかりますよ」って。「耳で聞いてりゃわかるもんですよ」って。
玲子 へえ。いい話だなあ。どんな芝居みたの?
ハル いろんな芝居みたな。「奥州安達原」だの「先代萩」だの。
玲子 そういえば、おばぁちゃんは義太夫もやるんですものね。
ハル んだ。だからなんでも、そうやって芝居にいっときゃあとで役に立つこともあるすけ。温泉にいくと、湯治に来てる衆がよんでくれることもある。暇はいくらでもあるすけ、しっかりと唄を聞いてくれたもんだ。だすけ、段ものでも長いものを語ったな。「明石御前」だの「石井常右衛門」だの、珍らしいというてよろこばれた。
それに、瞽女宿の衆が、「湯見舞」というて米の二・三升ももってあそびに来てくれるんだ。そうして、おらほの部屋に泊まっていってな。
玲子 ああ、それもいいわねえ。
ハル 三十ぐらいのときは、小野川温泉にそうやってひと月も泊まったことがあったな。ほうして、帰りはたいてい十月の二十日ごろかな。
そのころは、みんなおらたちのこと「霜枯れ瞽女」っていうんだ。ほうで「瞽女さま、越後へ帰らっしゃるかね」って、あっちこちで声かけられる。他の組も帰る時期は同じだから、二組か三組、一緒になって宇津峠をこえたもんだ。あの峠の上のところに、地蔵さまがあって、その前に力餅を出す茶屋があって、ああ、そんなところで、親方衆は親方衆同士、出世前のもんはやはり同じ仲間で、ゆっくりと話しあう。泊まりも一緒になる。そんな楽しみもあったね。
玲子 田植えや蚕の時期って、村のひとたちは目の回るほど忙しいんでしょ? そういう時期にも、旅をしてたの?
セキ そうだよ。蚕の時期には「お蚕さまがよろこぶ」って、待っててくれてね。
シズ そうそう、私らもよく「稲刈りのときに行くと、障りになるからやだっていわれるでしょ?」っていわれるけど、そんなことなかったね。
「田植えんときは、ごはんしるひとは多勢いるし、煮つけとかおひたしとか、少し増やせばいい。田植えして瞽女さの唄聞けんのはいいなぁ、田植えの瞽女さま大好きだよ」っていわれたね。
静子 田植えのご馳走がまた楽しみでね。ほら、ニシンとか車麸とかの煮つけだの、蓮根だのね。
シズ それに、お赤飯をおにぎりにして、ゴマだの、きなこだのつけてさ、朴葉にくるんで、田植えのおやつにするでしょ。
ハル そうそ、山形の衆もそんげにしていた。
シズ 「いまおやつ出るとこだ。瞽女さもひとつどうだ?」
って、もろて食べたぁ。それうれしくてねぇ。まだ若いでしょ?若くて歩いてるから、おなかすくでしょ?私なんて、よく歩き歩き食べて、お母ちゃんに怒られた。
静子 あれは、どこでやるんだよね。朴の葉にくるむの、ぼたもちくるんだりね。ほうで「瞽女さ、いまお茶いれるから、一緒にどうだね?」って。
シズ 信州へいくとね、おかみさんたちが、夏だのにきものきて、帯をおたいこにちゃんと結んでいるんだよね。それが、ぞろぞろぞろぞろ、私たちについてあるいてネ。ほら、お昼どきに縁側かりて、並んで弁当食べるでしょ、あれ、並んでみてるんだよネ。あれはきらいだった。
静子 蒲原でもそうだったよ。昼飯どきについて歩かれんの。
ハル ほだ。ここらの衆だってそうだ。鼻先にびょーんと立っての。
ナヨ だからおら、町へいくと弁当たべなかったもの。見られるのやで。
シズ だもんで、信州でね、手引きのひとがすまぁして、見物している女の人のおたいこの帯の上に、ひょいとおにぎりのっけてやったんだ(笑い)。そうしたら「なんとかさん、あんたどうしてね、帯の上にごはんのっけて!」って。
玲子 そういえば、山形でお年よりに聞いたんだけど、昔の村には色ってものがなかったんだって。それが、瞽女さんが来ると、髭には赤いてがらっていうの、あれつけてるでしょ?それから、はしょったきものの裾から、赤い腰巻きがチラチラみえるでしょ?それがなんともはなやかで、子ども心にお祭りがきたみたいだったんだって。それで、ついてあるいたもんだっていわれたっけ。
ハル そうかもしれねえ。宿発つときは、夏などは四時におきて、五時半には出るろも、出ねぇうちに子ども、表で立って待っているもの(笑い)。
シズ わたしは「便所へいけばついてくるし、食べるとこはみるし、そういうの大キライだ」っていったことがあるの。そしたらね「瞽女さん、それは考えようですよ」っていうの。「おもらい(乞食)だったら誰もついてあるかねけど、あんた方こういう商売だからついてくんだ。歌がききたくてついてくんだ」って。
ハル 町場歩いてても、ここにいる静子さんなんぞ、よくお菓子もろたりしてたな。また、このひとがうまいんだ。店へよっちゃその店ほめるんだ。「あら、きれいな店、まあ、こんなきれいな前かけあって、いいなあ、私も年があいたら、こんなきれいな前かけ売ろかなあ」(笑い)
店の衆がおかしがって笑うて、前かけくれたっけ(笑い)「こんなきれいな前かけ、いくらぐらいするもんだろうねぇ」なんてあんまりいうもんだすけ。
静子 くれるもんは、おら何でも遠慮なくもらうことにしているんだ。
ハル それでとなりの店へいけば「いいなあ、こんなきれいなお菓子や。まあ、こんなお菓子みるの、おらはじめてだあ」(笑い)それでお菓子もろて「それじゃひとつ、歌うていこかねェ」ってことになったりして。
静子 そうして歩くのが、おもしえだ。
ナヨ そういえば、五十銭もするかんざし買うたことがあったな。
静子 そうそ、椿のかんざしなんだ。「いいなあ、これいくらぐらいするのかなぁ」といっても、それはくれね(笑い)五十銭もするんだもの、それでもおら欲しくて欲しくて、「おら稼いで、十銭ずつもってくるからよそへ売らねでくろ」というたら、「それならいいから、持ってけ」って。あれ、うれしかったなあ。十いくつのときだったの。
ナヨ それで、宿についたら、「瞽女さ、かわいらしいから、髪結ってくれる」って、宿の衆がね。あれもうれしかった。おらも銀杏返しなんか結うてもろて。
静子 昔はみんな、宿の衆が髪結えたんだよ。じょうずにね。
玲子 そういえば、おばあちゃん(ハルさん)は、瞽女宿を追い出されたことがいちどだけあったって?
ハル ああ、ありゃ、おらがそうさなぁ、二〇ぐらいのときだ。栃尾の方を回って「しんとく丸」を語ったら、宿のおかみさんの様子がへんなんだ。そこのうちの旦那と、とうとうけんかになってしまって、おらたちを泊めたくねっていうんだ。
どうしてかというと、そこのうちのおかみさん、前のおかみさんがなくなったあとに連れ子をしてその家に入ってきたひとだったんだな。
玲子 ああ、そりゃまずいわ。「しんとく丸」というのは、継母(ままはは)の継子(ままご)いじめの話でしょ。ワラ人形に釘打って、継子のしんとく丸を呪うんだから。
ハル だから、おらはちッともそうは思わなかったども、おらに面当てされたと思うて。そのうち、だんだん、おらたち泊めるなら出てくという。それ聞いて、放っておかんねもの。「おらたちは世間を人さまの門に立って歩く身だ。おらの唄のために、迷惑をかけちゃ申しわけねぇ、野宿しても出ますから」って、その宿を出ることになったんだ。
玲子 それでどうしたの?夜半になってからでしょ、瞽女宿で唄ったあとなんだから。
ハル だすけ、そのときの手引きゃ、九つの子だったども、ベソかいてなあ。それでも、いい按配にとめてくれる家があったんだ。それで軒端に寝ねぇですんだ。
聞いてみたら、その泊めてくれた家というのは、前の家の死んだおかみさんの実家だったんだな。それで「そらぁ気の毒だ」って、親切にしてもろた。
玲子 おもしろい話ね。よかったじゃないの。
ハル おもしょいって。今だからそういわれるどもな。そんときは困った。だすけ、それからは「しんとく丸」を語るときには、宿の様子、ちゃんとみてから語ることにしたんだ。
少しことばのはしはし、気をつけりゃ、そこにどんな人がいるか、分かるもんだすけ。宿の衆のことなんど、よそにいってしゃべったりはしねぇもんだ。
玲子 私もこれから、気をつけるようにしなくっちゃ。
玲子 ところで、戦争中の旅はどうだったの。
シズ 戦争中だって、村の衆はちゃんとおらたちの行くのまってて、米がないときだったけど、ジャガイモくれる人もあれば、ニンジン、ダイコンくれる人もあれば、アズキ五合なんてひともあったね。
ハル あのころは村の衆も米が食べられなかったんだ。だすけ、おらたちもトーキビや豆の粉持って旅回りしたもんだ。
シズ それでも、私ら回ってくと、東頸城の方じゃあね。ひとにぎりずつの米はくれたの。そうして飯米ためてね。お母さんの実家へいったことがあるの。
そしたら、途中に石があってさ。「そこへ腰かけて休むかなあ」って、休んだんだよ。そしたら、ちょうどそこが駐在所の前だったんだよね。そこに巡査が二人いて「おう、お前たちのしょっているのは、米じゃないだろうな」って、お母さんの荷物ん中にあった米みつけられてね。とりあげられてしまったんだよ。
あのとき私は十七か、十八だったけど、くやしかったね。眠ったい目で一生けんめ村回りして集めた米でしょ。泣いたね。
そしたら、巡査が「君たちは門づけに歩いて米集めてあるくの。法律違反だ」っていうの。お母さんそのとき「瞽女しられたらしてみろ!」って、たてついたんだよ。
そしたらそれを近所の衆が聞いてて「あそこの駐在ほど情け知らずのものはない」っていうんだよ。「目の見えないもんがひとつかみずつもらってあるいた米を、あんた方目ぇつぶってやりゃぁいいのに」って。
玲子 それもいい話ね。
シズ それを聞いた朝鮮の人がね、わざとモミガラたくさんかついで、駐在所の前へいってね。「オイオイ」ってとめられたら、「お前か、瞽女さの米とった巡査てな。欲しけりゃいくらでもくれてやるわ」って、バーッとモミガラばらまいてきたんだって(笑い)。
玲子 そうやって、村の人たちはみんなして「おらほの瞽女さ」いっしょうけんめ、かばってくれたんだ。
シズ そうだよ。だから、私のとこへ話聞きにくるひとが、たいてい「旅はつらかったでしょ?」っていうけど、そんなことないんだよ。私ら、旅がつらいなんて、いちどだって思ったことないよ。どこへいってもよくしてもらったんだの。
セキ ほうだな。おらも、家にいるときゃ、何もしることねぇろ、二、三日もすると、騒ぎにいきたくなったもんだ。
シズ だからねぇ、私ももっと若かったら、竹下さんと一緒になって、旅をしてあるくんだけど。
ハル おらも年とってしもうて、しようがねえろもな。
玲子 そんなこといって、おばあちゃんもシズさんも、こないだ私のリサイタルを新潟でやったときなんか、すごいんだから、私より張りきっちゃって。
ハル お前もこれから瞽女宿の旅したいそうらろも、ちゃん、ちゃんと唄うようにしねばな。はたに迷惑をかけるようじゃだめら。「はたらく」ということは「はた」を「楽」にすることだすけ。
玲子 はい。これからも、やすらぎの家に勉強しにきますから、みなさんも体大切にして、いつまでも元気で唄を聞かせてくださいね。
セキ そうそ、お前さ、こんど新潟の小国町の猿橋で唄うってこったが、あそこの婆さが体が悪いってきいたけど、見舞いにいってきてくんねえか。
玲子 はい。それじゃ、また旅の報告にきますから、楽しみにしてください。
1988年5月15日 於 黒川村、胎内やすらぎの家
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