人口五十万の新潟市で、たった千枚の切符が売れないのなら、瞽女唄は滅びてもしかたないのだと腹をくくった。
この五月の竹下玲子リサイタルの企画が、いよいよ本決まりになったときのことだ。竹下さんは無形文化財の瞽女、小林ハル師の弟子として修業を始めて十年になる。それをひとつの区切りに、と思い立った企画は難航した。瞽女唄などで客は呼べない、赤字になったらどうする、というのだ。
結局、切符三百枚をひきうけるはめとなって、売れなかったら身銭を切って背負えばいいと、これまた腹をくくった。
頼りにしたのは、新潟市とその周辺の親子劇場。飛びこんではやみくもに口説いた。
「瞽女唄は女性だけの集団で、千何百年の間、女性だけによって守られてきた芸能です。こ
んな芸能は他に類がないといっていいでしょう。」
「瞽女唄は決して古くはありません。"葛の葉子別れ"で語られる母の心情は、どんな時代でも変わらないみずみずしさをたたえています。」
「瞽女唄は難しくもありません。村のおばあさんにもわかるやさしいことばで語られているんです。」
「瞽女唄は、私たちの先祖が伝えてきた村の文化です。それがこれからも伝えるに足るものかどうか、とにかく聞いてみてください。」
どうやらやっと、客席はほぼ埋まった。
何より嬉しかったのは、ことし米寿を迎えた小林ハルさんが特別出演してくださって、久しぶりの舞台を生き生きと楽しんでいらしたことだ。高田瞽女の杉本シズさんも、娘のようにはなやいでおいでだった。「瞽女さとウグイスは死ぬまで唄わんきゃあ」と、いわれていた通りだった。
伝承の瞽女唄ばかりでなく、新しい物語唄への試みもした。新作の「木魂婿」の作曲は平井澄子先生。惚れぼれするような名曲だった。門下の横山祐子さんと原千恵子さんが笛や三弦や琴で、竹下さんの語りをもりたててくれた。
弟子修業の年明けを迎えて、竹下さんの芸も、もう誰に聞いてもらっても恥ずかしくないものになっていた。瞽女唄の.段もの"をこれほど魅力的に語れる人ひとは、師匠の小林さん以外にいはしない。
リサイタルの純益は、盲老人ホーム、胎内やすらぎの家に寄附をした。
休む間もなく、竹下さんの瞽女唄の旅が始まった。いつまでも皿洗いのバイトしながらの勉強でもあるまい。瞽女宿のネットワークを作ったらどうだろうと提案したら、思いがけなく、多くの方が協力してくださった。
そんな瞽女宿のいくつかに、竹下さんのお供をして、瞽女さの訪れをじっと待ち続けていたお年よりが、意外なほど多いことを知った。村うちが老いも若きも集まってくる"寄り合い"の暖かさに触れた。涙を流して聞きいるおばあさんを、ふしぎそうに見上げながら幼い子もじっと聞き耳をたてていた。
「瞽女さの唄った"新保広大寺節"は、三国峠をこえて"八木節"となり、北へ向って"津軽じょんがら節"となり、西へ向って"古代神"となりました。
瞽女さのお蔭で、越後は"日本民謡のふるさと"となったといえるんです。」
こんな解説に、誰もがほほえんだ。
若い人たちにとっても、村の文化とのめぐりあいは、新鮮な体験となったようだ。
「瞽女唄を聞いていると、ふしぎにいごこちのいい、安らかな気持ちになれますね」
「もっと暗い、あわれっぽい唄かと思っていましたが、明るくてびっくりしました」
そういう声をあちこちで聞いた。
旅を重ねて、改めて思い知ったのは"しみじみと耳を傾ける"という文化が、まだこの雪国には色濃く残っていたということだ。それこそ、あらゆるコミュニケーションの基本となるものではないか。そのために瞽女たちは、きびしい芸の修業に耐えてきたのだ。
いまのテレビやラジオのどこに、そういう芸があるだろう。いたずらに騒々しいばかりの、みてくれの文化があるばかりだ。そこに埋もれて流されて、子は親を殺し、親は子を捨てるようになっているのではないか。
そんな潮流にさからって、竹下さんの瞽女宿は、五月から七月までで二十カ所を数えた。どんなにすぐれた芸能も、間き手がいなくては滅びるよりない。けれど"しみじみと耳を傾ける"人びとがいる限り、瞽女唄という村の文化は、生き続けていくのぞみがある。"瞽女宿ネットワーク"に、ひとりでも多くの方がたのお力添えをお願いしたい。
(わかばやしいちろう・一九三一年生れ、東京在住、劇作家、小国芸術村会員)
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