昭和四十年、みぞれの降りそうな田舎道を三人の瞽女さが手引きの人を先頭に歩いていました。ふるえる手でカメラをむけました。
「どちらから来ましたか……」
「はあ……長岡の方から」
「寒いのに大変ですね……ご苦労さんです……さよなら」
「はあ……ごめんなさい」
旅なれた足どりで歩きはじめました。
「気の毒な人たちですよ」
亡き母のやさしい言葉がよみがえり、心は少年時代のしかも母のそばにおりました。
瞽女さが来ると沢山のお菓子とお金をあげ、子供の瞽女さが居るとおつむをなぜて涙ぐむ母でした。
あの時は、四人だったのに昭和五十二年、あれから十二年めの春には二人でした。
中静ミサオさ、九人の兄弟姉妹で三女のミサオさは四歳のときに光を失ったのです。
お父さんお母さんは、
「なぜ、ミサオだけが目が見えなくなったんだ」
といって泣きくずれたそうです。三条の桑原医院にも通ったのですが、光はミサオさにもどりませんでした。
十一歳になって岩田組に入門し、十五歳になって初旅をしました。
旅がおわって古里に帰る朝、三味線をわすれて瞽女宿を出ました。あまりのうれしさに忘れてしまったのです。
「数え切れないほど、いろんなことがありました」
ミサオさは、よく言ったものです。
手引き(道案内)の関矢ハナさは最後の旅で元気がなかったようです。
「おれは、まだ、旅がしたい……やめたくない」
ミサオさに言うのです。かくし切れなくなって、はじめて施設に入ることを聞かせてくれました。
「おれも……としだから……」
聞きとりにくいほど小さな声でした。横で関矢さは泣いていました。
「関矢さ、元気を出して……中静さをたのみますよ」
大きな声で励ますと、涙もふかずに笑顔を見せるのでした。
「さあ出かけるか」
中静さは、いつものように左手を関矢さの背におくと、ゆっくりと歩きだしました。春の日は急に暗くなっていました。
「瞽女さが子供の頃から宿をしていましたよ」
やさしい眼差しのお婆ちゃんが涙ぐんで迎え、きちんと座りました。人生のなにもかも悟ったような婆ちゃんでした。
「おれも長いこと旅をしたもんだ」
中静さは、じーっと考えこむようにして三味線を取り出しました。これが最後の旅だとは言いませんでした。身を切られるように苦しかったことでしょう。
上がり口に腰を掛けたまま唄がはじまりました。
三味線をたよりに家々の門口で唄い、わずかなほどこしをうけて町から村を渡りあるく盲目の女性芸人瞽女さにとって、これが最後の唄になるとは言われなかった。中静さは、声をはりあげて唄っていました。
関矢さは、あたりの自然をたのんでいました。子供のように………。
「ごめんなんしょーう」
三回ほど関矢さが戸口で繰返すが返事がありません。
「先生、唄いますぜ」
中静さは、私を相手に唄い出しました。
あいたみたさに
とびたつように
親が出さぬは
かごの鳥
何かに取り付かれたように、しばらく唄うのをやめませんでした。ほほに涙が流れていました。私は手のひらが痛むほど拍手をおくりました。
中静さは、いつも控え目でした。松竹映画の大撮影隊、山本陽子さん、二谷英明さん、水前寺清子さん、高峰三枝子さん、そして、たくさんの作家、写真家、評論家の方々の前で、中静さが主客なのに、いつも控え目に、控え目にしておりました。
中静さ、関矢さの長い旅のドラマは、昭和五十二年の初夏で終わりました。
めまぐるしくうつり変わる世相のなかで、越後の山野に春をよび、秋を知らせて五十年、その瞽女さの旅の最後をつとめたのが中静さと関矢さの二人でした。
土の農かな香り、人の情、瞽女宿での心のぬくもり、そうした中に旅はつづけられ、おわりました。
ほろびゆくものの美しさ、悲しさ。けれども人々の心の中に瞽女さは長く生きのこることでしょう。
中静さは目の不自由なことを一度も口にしませんでした。
中静さは今、仏の国で心を覚まし、越後の自然を新しい目でみつめているかも知れません。どうか永遠に安楽な生活がつづきますようにお祈りいたしております。
(むらたじゅんざぶろう・一九二四年生れ、高柳町出身、仏教史学会会員、小国町森光在住)
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