現在、盲老人養護ホームやすらぎの家に入所している元瞽女小林ハルさんに紙漉きの里への旅のことを聞くと、最初に想い出すのは、加茂在の紙漉きの里大谷を廻っていて、黒水の病院で肺炎で亡くした養女ヨシミ女四歳のことであるという。ヨシミ女は二歳のとき小須戸から貰った女の子で、毎年米沢歩きにも連れて歩いていた。可愛い盛りであったので、あんなこというたっけ、こんなこともいうたっけと想い起こすという。悲痛な記憶である。
ハルさんが刈羽郡小国町を廻ったのは、十歳から十八歳くらいまでであったといい、柏崎から峠を越えて往来(ゆきき)したという。時期は春三月ごろと秋十月ごろであったという。瞽女宿で覚えているのは、苔野島の紙屋、楢沢の材木屋である。そのほか、三桶、桐沢、楢沢などは良い家に泊めてもらったものであったが、子供のころなので家の名前は覚えていない。山野田も門付けに廻ったが、泊まったことはなかった。
小国町や加茂在の大谷は紙漉きの里なので、門付けでも夜の興行でも紙をくれる人が多かった。紙はかさばって持ちにくいから、行李を持って行っていて、それにうまく入れていた。小国の方では、紙をもらってもいくらでもないから、てんでに持ってきて、中途で送ることはあまりなかったが、加茂在の方は紙漉きの家が多かったから、中途で師匠の家に送っておいて、あとで平等に分けてめいめいの年中の使い用にしたものであった。
小国地方では段物が好まれたので、夜にはよい紙であれば五枚だとか、ハナ紙にする紙は一把もってくるとかして聞いてくれたものだった。夜、段物を聞きにきた人が、大内地生紙のムシロ一枚くらいのものを綺麗に畳んで水引をかけてくれた人があったのを覚えているという。
瞽女が一般に広く受け入れられた一因には、歌に対する報酬が布施のかたちで、ムラビトの気持次第であったことにあるが、米銭のいづれでもよいどころか、綿でも紙でも豆でも栗でもよかったことである。瞽女の唄を喜んで聞く心がムラビトにありさえしたら、瞽女は喜んでそのムラを訪ね唄を歌っていたのである。
(さくまじゅんいち・一九一四年生れ、新発田市在住、新潟県民俗学会常任理事)
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