「瞽女唄」を聴く会・始末記(二)(鈴木紘一)
「実行婆員会の人たちの発想は実にユニークであった。昨夏感動を受けたとは言え、私は立場上、六月例会の『はなれ瞽女おりん』への前座となり、それによって会員がふえたら、との不純(?)な思いが先に立っていた。竹下さんの心意気への共感は前回で述べたが、手弁当の文化活動のなかで、火の車の財政をどうするかばかりが頭を占めている現実、それは寛恕(かんじょ)願おう。
しかし実行委員のみなさん(瞽女さなどほとんど知らない世代)は、唄を聴くだけではレトロ(懐古)趣味で意味がない、もっと探く、地域文化の伝播母胎(芸能、宗教、情報)であった「瞽女さ」を丸ごと知りたい、というのである。
かえりみれば、私たちは小林ハルさんや高田瞽女の杉本キクエさんの瞽女唄はレコードやテープで知っているつもりだが、地域文化(私たちが熱心におしすすめている)とのかかわりあいなど、その実態については全く無知なのだ。事実、「ゴゼンボーって、盲目のコジキ芸人だろう」くらいの認識しか、まわりにはなかった。そこで、実行委員会ではまず、郷土史家で私たちの会員でもある山崎昇さん(正・続『長岡の歴史散歩』の著者)からレクチャーを受け、プランニングした。
そして、そのテーマとなったのは『いま、なぜ瞽女さなのか』、ということであった。このことについては五月十一日付の本欄に書いたから重複の繁を避けるが、実行委員会では次の企画をした。
第一回は、長岡科学博物館長、鈴木昭英さんの講演『瞽女の修業と生活―長岡瞽女を中心に』であった。急造で、大した宣伝もできなかったのだが、市民劇場の内部よりも早く、地方のマスコミの反応により、「新聞で見たので」という会員以外の参加者が多く、たしかな手ごたえを得ることができた。第二回目の企画はやはり講演会で、小国芸術村のメンバー、劇作家の若林一郎さんの『瞽女唄―地方発信の文化を求めて』。ともに中央公民館に会場を求め、無料の催しであった。
この二回の講演会をとおし、年配の方は子ども時代の瞽女宿のことを回想し、また着い人たちは「瞽女さ」への認識を深めることができた。特にすばらしかったことは、地方地方にこそ確とした「文化」が存在したのだ、という思いであった。文化すらも中央集権化のはなはだしい現在、これは私たちの日ごろの活動を強力にサポートしてくれるものであった。竹下さんの瞽女唄への期待はいっそう高まり、例会の『はなれ瞽女おりん』も、瞽女さを知るための一助のように思え、不純な思いなど、いつの間にかけし飛んでいた。(以下、次回)
(長岡市民劇場委員長)
「日刊ナガオカ」しなの川 1988.6.24より