出席者
永見 恒太(下村・明43年生)
竹部 一郎(二本柳・明40年生)
粕川 くら(苔野島・明35年生)
中村 クニ(苔野島・大2年生)
山崎 正治(法坂・大14年生)
高橋 実(楢沢・昭15年生)・司会
山崎 本日は、お忙しいところごくろうさまです。私どもの会の「へんなか」第六号で、小国の昔話の特集を計画しているのですが、それにのせるために、小国では、語り爺さ、語り婆さといわれる人から集まっていただき、昔話にまつわるいろいろなことを語ってもらいたいと思ったわけです。どうか気楽に話してもらいたいと思います。しばらくおつきあい下さい。
高橋 小国の昔話の語りも、昭和六十一年、日本民話の会の人たちが来町して以来、いろいろなところで語られて、八回くらいになると思いますが、多くの人たちから大へん喜ばれております。ようやく歴史の重みもついてまいりまして、これも小国の貴重な財産といえるものになりました。これからも、ぜひこれを語り続けていってほしいものと思います。外部の人たちも大へん喜んでいただいて、民話の会の若い女の人たちは、昔話は、本でよんだり、テレビで聞くものと思っていたけれども、年寄りの口から初めて聞いてびっくりしたといっていました。
山崎 この間の「おぐに雪まつり」でも、三月十日夜、青少年の家で「昔話とごぜ唄を聞くタベ」がありましたが、武蔵野市からきた人なんか大へん喜んでいました。ところどころわからないことばもあったが、おもしろかったそうですね。翌日会って、お礼をいわれました。
竹部 この間のときは、会場いっぱいでしたね。
山崎 スピーカーが外にもついていて、表できいていた人も大ぜいいました。
永見 自分でも、今まで話を語らせてもらう機会が何回もあるのですが、昔、爺さんから聞いたときには、あいづちの「さあす」がうまくはいったものです。昔話の語りに入る前に、高橋さんから、小国の昔話は「さあす」というあいづちを入れるのが特徴だと解説してもらっていますが、そのようにわれわれも語りたいものと思いますが、なかなか入らんのです。唄も人から聞いてもらう時には、何回も練習するわけで、われわれもこれからは語り方を研究しないと、ほんとうの語り爺さになれないのではないのかと思っているのです。
語り始めるとき、初めは、間合いをおいてあいづちを入れやすいように注意しているのですが、そのうちに夢中になってしまって、間合いをおかずに語ってしまう。そうすると聞いている人も「さあす」が入れにくくなってしまうわけです。
山崎 そこがむつかしいところです。この間、長岡の下条登美さんの話を聞いたのですが、こちらで、「さあす」といいたくなるような話し方をする。あの人の話し方は、「……てんがの」というと、そのあと、「さあす」と入れるような語り方をしている。「さあす」を入れてならないときには「……てんがの」と言わない。なるほどそうかな、俺もひとつやってみようと思っても、いざとなるとやれない。
永見 私も、はじめは、そういうつもりで語り出すんですが、あとが続かない。
中村 「さあす」がはいると語りやすいんですか。
永見 それは語りやすい。こどものころ、年よりが「ねら、さあすといわんけやだめらこてや」といっていたが、あれがはいると話も語りやすいのです。
中村 私の実家(北蒲・加治川村)の方では、「はあ、はあ」といっていました。
粕川 私の話も、語りの途中、切れがなくて、あいづちを入れにくいと思う。
永見 そのあたりが、これからの研究です。緊張すると、小国の方言がでてこないで、「あります」「ございます」ということばがついついでてしまい、そうなると「さあす」が入れられない。
高橋 語りつけないと、ついつい今のことばになってしまい、小国の方言が出てこない。やはり、語りにも熟練が必要だということですね。
中村 私なんか、人に小国の方言でやってみたらといわれるんですが、とうとう小国のことばで語れない。方言というものは、小さい時から身についたものでないと語れないものですね。
永見 この間の話の中でも、「あっぱんじょ」なんか言ったが、わかったんですかね。
高橋 石でケツぬぐうなんていえば、わかったでしょう(笑)。
山崎 学校の子供たちに話をしてくれとせがまれるんですが、その時、約束して「さあす」と上手にいってくれれば話すといって、あいづちがいるときには、語り手の方で合図したんです。そうすると子供が「さあす」といい、こちらも気分よく語ることができました。まさか、一般の人相手に、こんな八百長はできませんね。
竹部 いろいろ本を買って昔話を読んでんみたけれど、小国独特のいいなあという昔話は、ないようですね。
高橋 昔話は、ここしかないというようなものは少なく、日本中、いや世界に共通する類型が多いのですが、少しずつ土地にあったように変えられてしまうようです。
永見 あの八石山の弥三郎婆の昔話ですが、あれと同じ筋の本をみましたが、小国のものではなく、広神村の権現堂の山のことになっていました。本は『越後の国 雪の傳説』(鈴木直、昭和十七年初版、目黒書店)というものです。
竹部 弥彦の弥三郎爺さの話を本でみたことがあるが、小国の弥三郎婆さは見たことがない。
永見 われわれが聞いている話は、婆さが、孫が可愛いくて可愛いくてついには、赤ん坊を食ってしまう話なのですが、この本の弥三郎婆さんは、腹が減って腹が減って、餓鬼になってしまって、どうしょうもなくなって赤ん坊を食ってしまった。そうしたら人間の味が忘れられなくなってしまったという話になっています。
山崎 伝説は、場所がかわっていたり、あっちの伝説、こっちの伝説が一緒になってしまったりしたものがたくさんあるようです。
竹部 俺の聞いた話は、大吹雪になると、八石の弥三郎婆さと、弥彦の弥三郎爺さがいったりきたりして、大風を起こしているという。
高橋 十日町でも、風が吹くと弥三郎婆さが、年始にまわっているという。
山崎 八石の弥三郎婆さが、弥彦にいったという話もあります。弥彦太郎と再婚したが、すぐ本性をあらわしてしまって、子供を食ってしまった。その時、着物をかけたという杉の木も残っていて、天然記念物になっています。それをあがめて、妙多羅天女という神にまつったら、子供を守ってくれたという、鬼子母神の話になっています。競輪場の裏手にすばらしいお宮ができている。この辺の人はみょうたれ婆さ、みょうたれ婆さというので、しょうたれ(汚い)婆さのことだと思っている(笑)。子供を修学旅行に連れていった時、その話は聞いたが、その時の説明では、小国から来たとはいわなかったようです。
高橋 もうひとつ、豆の話がありますね。
竹部 八石の豆の話は、まご爺さからきいた。大風が吹いて、豆の木がポコーンとかけて、ほうほうととんでいった。苔野島の人が「おら方へ飛んできた」と待っていたけれども、苔野島を素通りして、三桶へ飛んでいってしまった。苔野島の人は、それでこけたという(笑)。
先妻の子には煎った豆あつけ、後妻の子には、生の豆あずけ、豆まきにやらせたという話はよく聞いている。先妻の子のまいた豆から、八石もとれたので、後妻も心を入れかえて姉娘の方も大事に育てられたという話になっている。
高橋 その話、神田屋の「八石もなか」の栞に入れるために、文献にあたってみたが、継子いじめの話は、どこにも書いてなかった。豆の木の枝が、楢沢の八俵(方言はっちょ)にとんで、豆が八俵とれたという。そのいわれがあって、八俵という地名が残ったという。
竹部 私の見た『越佐の伝説』(小山直嗣、野島出版、昭四二)には、糸魚川市の話として「豆の大木」が載っている。その話のあとに「注」として八石山の話になっています。
永見 後妻の子は、かわいくて生の豆、先妻の子は憎くて、煎った豆を預けたというはなしはよくききました。
高橋 昔話は、時期的にいつ聞いたものですか。
竹部 父親が毎晩、稲こきしながら聞かせてくれました。今のように脱穀機では、そんなことはできませんが、ビリビリと千歯で稲こきしていたとき、同じ話を何べん聞いてもあきませんでした。
高橋 子供は、手伝いせずに、そばにいて話を聞いているだけですか。
竹部 父親も話をするのが楽しみで、子供に話ながら、ビリビリと稲を扱(こ)いていました。
高橋 母親から聞いたことは。
竹部 あまりない。父親は、話好きで、毎晩同じ話をしてくれた。そのころは、二月正月で、テレビもラジオもなかったころのことです。弟が五つ下にいたが、一緒にきいたかどうかわからない。年よりから聞いた記憶はありません。
粕川 私の親は、あまり仕事をしない人で、本ばかり見ている人でした。釈迦一代記の本を読んでくれました。生まれてから死ぬまでの釈迦の一代記です。風呂もらいにいった時に聞かせてもらったり、もりっ子の女の人から聞かせてもらったこともありました。金毛九尾の狐の話、工藤判官、野狐三次の話をききました。ゆうげん上人の話も聞きました。そのほか、豆が一粒ころがってゆき、それをおいかけてゆく話などをおぼえています。
中村 私の聞いた話は、庭掃きしていたら、稲の穂が落ちていて、それを拾ってダンゴをこしらった話になっています。そのダンゴがコロコロころがって、穴の中にころがりこむ。
高橋 小国では、豆になったり、アンブになったりしている。
中村 私の昔話は、兄弟が大ぜいいまして、一番上の十九歳上の姉から聞かせてもらいました。姉が家のあととりみたいになって、夕飯を終やすと、こたつで語ってくれました。語り出しも小国とは、違っています。
高橋 小国の語り出しは、「昔あったげろ」「昔あったてんがの」「昔あったてや」といろいろありますが……。
中村 「昔あったと」だったかと思いますが、あまりはっきりおぼえていません。
永見 タイギョウ(収穫祝い)の夜、昔話を語ってもらったことをよくおぼえています。昔は、田掻きの時、馬の鼻取りが子供たちの仕事で、あれは、小学三年くらいからしましたか。鼻取りにゆくとタイギョウに招んでもらえました。その時、聞かせてもらう話が楽しみでした。
竹部 私は、タイギョウの記憶はありません。
永見 家の方のインキョやのおいちというおじいさんが、話上手でした。そのおじいさんは榎峠のむじな退治の話が得意でした。
山崎 社会科の先生たちで集めた伝説『小国のとんと昔』(小国町教委、昭51)の中では、榎峠のおおかみ退治の話となっています。私の子供のころ、まわりばんというのがありました。毎晩仲間の家を順番に回って、遊ぶんです。その宿では、ごちそうをしてくれるのですが、宿の人から昔話をきかせてもらうこともあって、たのむと快くきかせてくれました。粕川郁夫さんの奥さんの実家は、私の家のすぐ隣にあって、話好きの人がいました。
中村 親が忙しくて、稼いでばかりいて、昔話は何もきかせてもらわんかったという人もいますよ。
竹部 母親からもだいぶ聞いたが、忘れてしまった。「小僧いいかや、まだまだびっちびちのさかり」というあのかけあいの文句ばっかりはおぼえている。
高橋 「三枚の札」の話ですね。筋は忘れてしまっても、文句だけおぼえている人によくあいます。猿智の話でも、「爺さ爺さ、湯でも茶でもいらんかい」「湯も茶もいらんが、山の猿のどこへ嫁にいってくんねか」というやりとりが、三人の娘になされるのですが、これを、「三人の娘にたのんでみた」と省略しないで必ず、このやりとりをくりかえす。
永見 よくおぼえています。
竹部 猿は猿川へ流れども、後へ残る嫁女が恋し恋し、という文句もおぼえています。継子いじめの話でも「板の橋は渡れても、萩の橋は渡らんね、ピーヒャレタヒョレ」と鳥がおしえてくれるとこなどおぼえていますが、前後の筋がつながらないところがある。
粕川 そのまま子いじめの話が、ばかにいっぱいあるが、話すのがいやのような気がします。
高橋 ごぜ唄の中にも、俊徳丸というまま子いじめの話がありますが、ごぜの小林ハルさんが、ごぜ宿で、この唄を歌ったところ、宿の人が後妻の家で、この唄を歌って追い出されたという話を語っていますね。
竹部 昔話には、まま子の話があって、今の子にはあまりきかせたくないものがある。
中村 子供たちは、かわいそうな話をよく聞いていたものです。
粕川 まま母の話など、今いってはならないと思って、他の話に代えて話すようにしています。
高橋 昔話は、たしかに残酷なところがあります。かちかち山の話でも、婆さんが殺されて、その肉を食べさせられたりすることがあります。それでも、やはり、昔から伝わってきた話でできるだけ、すじに忠実に話した方がよいといわれています。
山崎 ばあさん達が、こたつで苧績(おう)みしながら、昔話を聞かせてもらうこともあるが、苧績みは口にくわえて、しめらせながらつないでゆくでしょう。そのたびに話が中断して、聞いている方がまだるこくて、績むのをやめてくれというが、それもできない(笑)。
中村 川のはたへ、栗の木があった話があるでしょう。風が吹くと、実が落ちて、カサカサカッポン、ドビンサンスケとおちる話、子供が「それから」と聞くと、また、風が吹いて、同じことを何回もくりかえすわけです。
高橋 はてなし話というわけです。忙しく手がはなせないとかという時に、昔話の撃退法といいますか、子供の方は、それをくりかえされると、たまったもんじゃないですよ。
竹部 浦島太郎の話は、父親から毎晩きいてもあきなかった。すっかりすじをおぼえていても、また聞きたがる。
山崎 すじのある話は、何回聞いてもあきない。あまりきくので、途中で省略してしまうと、そうじゃない。ここがおちていると、聞く方が教えてくれるわけです。
高橋 同じ話を、何回聞いても飽きないというのは、どういうものでしょう。
中村 語り手は、眠くてしょうがなくても、聞く方は語り口そのものを楽しんでいるようです。ちょうど音楽を聞くようなものでないでしょうか。
粕川 何回も相手になって語っているのに、子供から「そんげのがんわかっていらあ」といわない。そこが不思議なところです。
中村 花咲爺さんの話の中で、犬は、どこからくることになっていますか。私の方では、香箱が流れてきて、そこにはいっていることになっている。
山崎 いろいろな場所場所により、話も違っていたと思いますが、絵本になったり、教科書に載ったりして、民間に伝わったのが、消えてしまったのではないでしょうか。講談社の昔話など、すばらしい絵本でしたよ。
竹部 BSNで土曜の七時からやっているまんが日本昔話はおもしろい。今の新しい話は、おもしろくない。
山崎 あれは、二人で語っていて、ベテランなんですが、時間が限られているし、放送じゃ、語る一方で、相手が見えない。昔話は、相手の反応を見ながら語るところに面白味があるのです。
高橋 竹部さんの話は、火伏の地蔵様や、桐沢峠の怪談など伝説が中心になっているようですが……。
竹部 私の知っているのは、伝説でしかない。昔話は、あまり知らない。吹雪の泣き場所、黒姫米山の伝説、本からとった話も多い。
高橋 粕川さんは、どんな話を知っていますか。
粕川 すじだけわかるのは、ほらの貝の聟、星の精、猿の生き肝くらいのもので、山野田で語ったとき(平成2年1月27日)は、あまり短いので、笑い話をひとつしました。
水沢謙一先生が、小国へ来たとき、本一冊もらいました。
竹部 水沢先生の昔話の本は、何冊かあるが、あまりおもしろいというものはない。
高橋 下条登美さんは、百も二百も昔話を憶えているということです。
山崎 この間新聞に出ていたのは。
高橋 栃尾の人だった。あの人も多く知っているという。
山崎 長岡の笠原正雄さんも百話も知っているが、全部母親から聞いたということでした。
高橋 忘れていても、きき出す人が上手だと思い出すわけです。
山崎 かちかち山の小国の話なんかおもしろいなあと思う。あっぱが出ねように、しんなんな(尻の穴)を竹で縫って、なんぎくなる話なんかはおもしろい。
山崎 高橋さんの集めた『小国の昔話』(昭和34年刊)はおもしろい。あの中の樋口ソメさんは、よく知っている人でした。あの孫にあたる人と同じくらいの年になるのですが、残念なことにまわり番の仲間になっていなくて、話を聞く機会はなかったことです。
中村 あのころの本は、私も大切に保存してあります。あの本を、自習時間に、子供たちに読んでやったら、大へんよろこびました。
高橋 あの時、もっと一生懸命に集めておけば、もっともっと好きなようにいっぱい集められたのですが、今考えると残念です。
中村 あの本にある、ばばっけ着た娘の話など、粕川くらさんも知っています。
山崎 あの話は、シンデレラの話に似ています。
高橋 粟福米福の話もシンデレラに似ていておもしろい。舞踏会にゆくのではなく、芝居見物が舞台になっていて、まま子は、風呂焚きをさせられているが、婆さんから衣装を出してもらって芝居にゆく話です。
山崎 あの本は、そっくり『民話の手帖』にのせられたが、本で読んだのではやはりおもしろくない。これからは、いかに語り伝えてゆくかということではないですか。
高橋 その通りです。本にまとめてしまうと、それでもうおわったような気になってしまい、語りのおもしろさは、失われてしまうわけです。くらさんは、昔話を思い出すと、ノートに記録しておく、これだけ熱心な人は他に知りません。くらさんは、いつごろまで語っていたのですか。
粕川 子や孫には、あんまりしませんでした。民話の会の人が小国へ来たときから、やっと始めたのです。
高橋 61年の7月、小国で夏の民話学校があったときですね。あの時は、話者を捜すのに、大へん苦労しました。
山崎 松谷みよ子さんが小国へ来たとき、教科書では、松谷さんの教材がいっぱいあって教えていたのですが、その松谷さんと、目の前の松谷さんと結びつきませんで、あとになって、あの松谷さんとわかっておどろきました。
竹部 法末むじなが、京都へ飴売りにゆき、太鼓たたいて飴売りした話を知っています。峠のおふみと、桐沢のおすぎが仲よく、上方旅行した話を聞いた。
山崎 竹部さんの怪談はまたよい。
高橋 山野田にある木我と、苔野島の山我の名字の伝説を聞いたことがある。山野田と苔野島が境界争いをして、木と山とどちらかおれのものだと争った話だったと思う。
山崎 その話はおもしろい。
高橋 楢沢の「こうじろいもちゃ」という家は、楢沢のいちばんはずれにあり、小千谷峠をこえた人が最初にたどりつく家で、ここで冬の峠越えの話をいろいろきいたことがありました。背負っていた兎の皮をなめて、やっと助かった話などよくききました。
竹部 楢沢のトンネルは、明治45年開通したものですが、新町の人があそこへ茶屋を出していました。あのトンネルをあがったところが、三方になっていて、吉谷、法末、新町峠と道がわかれるわけです。冬は、あの峠を越えて、酒やしょうゆを小国へ運んだんです。
高橋 吉谷の「くえん」の人ときいています。
竹部 あの人は力があって、酒を二升も三升も、そりごとかついでくるのです。あの峠の化物話などは、いっぱいある。
高橋 昔話を語ってくれる人はいませんか。
永見 語り手は、これからどうしても捜していかなければならない。それも本で読んだから語ってやろうというのでなく、やはりじかに年よりから聞いた経験をもった人でないとむつかしい。
高橋 私くらいの年でも、祖母から猿むご話は聞いているのですから、若い人でもきいた経験をもっている人はいると思う。
竹部 この辺じゃ、秋山話がよろこばれる。
中村 こたつというものを知らず、風呂へはいるときのように、はだかになってはいった話など聞いています。私の在所は、秋山でなく、山もとのバカアンニャといっていました。
高橋 秋山の人は、自分が秋山の出身ということを恥じていたという。このへんの秋山話は、こたつにあたれとすすめられたけれども、はいりかたがわからないで困っていると、ねこがこたつにもぐって、こちら方からむこう側へぬけたのを見て、そのまねをした話になっています。茶ワンのお湯をさますのに、つけ菜や、たくあんを入れてかきまわすときいて、風呂のお湯をさまそうとしてたくあんでかきまわす話とか、いろいろあります。
山崎 あの話は、嫁が賢くて、前もっていろいろ教えておくのだが、その場になると失敗してしまう話になっている。
竹部 永見さんが、昔話の語り研究会をつくるという話をしていたので、それを待っているわけです。語るときの赤ずきんとそでなしもつくって、服装の方は、ちゃんとできました。
高橋 雪まつりの時の竹部さんの服装は、よかった。
竹部 昔話の語り手も大ぜいいたが、みんな死んでしまった。竹部タミさんは、ことし米寿の祝いをしたが、この人はよく知っている。
高橋 今の子供たちにとって、昔話は、どうなんでしょうね。
竹部 家の三人の孫は、全然反応がないようですな。子供より大人がおもしろがって聞く。
中村 子供の小さい時は、よく聞かせてやりました。よろこんできいていました。
山崎 この間、保育園に頼まれて語ったが、みんなが夢中になって聞いていた。あの時は、「かにかにこそこそ」「しりなりしゃもじ」を語ったが、みんながよくきいた。「ふるやのもりや」はよくわからないようだった。去年は剣道クラブの合宿にたのまれて語った。中学生が多かったが、これには、弓の名人小国頼継の話だったが、よろこんでいた。
竹部 渋海小に頼まれて、昔の話をすることになっている。昔の遠足のかっこうとして、わらじはいて、尻ぱしょりして、風呂敷包みをかついで話をしようと思っている。
高橋 山崎さんの語りの中で、まつ吉が山んばの寝たのをたしかめようと、階段を降りてくる場面がよかった。階段がミシミシと鳴ると、山んばのいびきがぴたっととまる。またいびきがきこえ出すと、階段を降りる。ああいう場面で、声を大きくしたり、小さくしたり、表情を入れて語るところなんか、すばらしい。あれを「松吉は、めっけられると大へんだと思って、びくびくして階段降りていったてや」といっては、雰囲気が出てこない。
竹部 子供には、怪談が一番いい。子供はおっかながるくせして怪談を聞きたがる。目がつりあがってきて、そういう子供の顔をみていると語る方がおもしろい。「でたぞ」というと、「わあ」と声をあげる。
永見 そこまで語られれば、昔話の大先生になれる。
高橋 これからの親は、もう昔話をしらないわけですから、年よりからどんどん語ってもらわないと、忘れられてしまう。まず大人が知って子に語ってやれるようにならないと。
竹部 その通りだ。機会を見て、語ったり、本にまとめたりして残すことが第一と思う。
永見 これを広めるには、語り手をほりおこしてもらわないと、小国の昔話は、永久に滅んでしまう。今まで、いろいろの人の努力のおかげで、ここまで残ったのは、ありがたいと思う。
高橋 宴会の席などで、歌がわりに昔話を語ると人によろこばれる。カラオケは、うるさいばかりで、人はきいていないが、昔話になるとしんとなる。水沢謙一さんなど、宴会になるといろばなし専門で、大人もしんと聞いていて最後に爆笑がおこる。あの人は、ああいった話をいっぱい知っている。雷がへそをとって重箱につめていて「へその下見るな」という話を聞いたこともある。この前、民話の会の懇親会の時も、次々といろ話がでておもしろかった。水沢さんは、昔、小国に入って昔話を集め、その原稿を教育委員会に預けたというけど、その原稿は、行方不明になっているという。
竹部 いろ話は、いろいろな本にものっている。みやげものやなどに、絵がついて、小さい本にまとめてあるのを見たことがある。
永見 小国のいろ話は、高橋達二さんだろう。あの人なら知っている。昔話も、役者がいろいろあってよいと思う。怪談なら竹部さん、いろ話なら高橋さんというように。
高橋 みなさんから研究してもらって、レパートリーをふやしてもらいたいものです。
中村 私は、ここの産じゃないので、地元の方言をうまく使いこなせず、もっぱら粕川くらさんのひっぱり出し役で語らせてもらっています。
高橋 粕川さんも遠慮せず、どんどん人の前に出て語ってもらいたい。
竹部 苔野島のもうひとり語る人がいたが。
高橋 粕川えづさんで、あの人もよく知っている。ひとりぐらしなので、冬は、高田の子どもさんのところへいっている。
竹部 竹部タミさんも、今入院しているが、退院すれば、どんどん語ってくれると思う。
高橋 みなさんがどんどん語ってゆけば、「これはクラさんからきいた話ですが、私が語らせてもらいます」ということになってゆくのではないですか。語れば、語るほど思い出す。
永見 しっぺい太郎に聞かせるなという犬の話などよく聞いた話だ。
高橋 その話は『小国の昔話』の中にのせてあります。あのころは、いまのような小型のテープがなかった。あのころ、同じ家で、どんどやきのとき歌う、天神ばやしをうたってもらったが、今のようにテープにとっておけば、どんど焼きが復活したとき、唄もいっしょに再現できたのにと思い、今思うと残念でならない。今は、ただだまって火のまわりを囲んでいるだけだ。
竹部 烏追いの唄も、部落によって違っている。
山部 以前、社会科の教員グループであつめたことがある。歌詞は、二十くらいあつめて本にしてある。『小国のとんと昔』(前出)という本です。
高橋 昔話も、今集めておかないと、だめなわけでこの語りを、ぜひこれからも滅びないようにお互いに努力していきたいものです。
今日は、ほんとうにありがとうございました。
(座談会は、和気あいあい小国方言で語られているのですが、共通語になおしました)
1990年3月17日 於 小国町就業センター
■「越後の昔話 名人選」CD(全11枚)の頒布について■ |
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越後の昔話名人選CD |
平成6年以来「語りつくし越後の昔話」と題して、瞽女唄ネットワークは新潟県下各地にお住いの名人級の語り手による昔話を聞く会を開催してきましたが、その録音テープを元に再編集したCDを販売しております。 優れた語り手による昔話は聞いて楽しいばかりでなく、民俗学的にも貴重な資料となっております。活字でしか接することが難しくなってきた昔話を、語り伝えられた土地の言葉でたっぷりとご堪能ください。 越後の昔話名人選CDの内容・お申込み方法は、こちらから |
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