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小国−出会い−瞽女唄

ネットワーク前史kiroku


竹下玲子と小林ハルとの共演

小国−出会い−瞽女唄

 最後に、若林一郎の文章から小国町との出会いと瞽女唄への思いを書き綴った部分、高橋実の文章から若林一郎との出会いの部分を引用して、「昭和62年5月 小国町にて芸術村主催の小国芸術村フェスティバル開催、紙芝居、ごぜ唄、昔話を語る」についての説明を終えたい。若林の文章は昭和61年に書かれており、二人の出会いもまた昭和61年であった。

 紙漉きの里に魅かれて

 小国芸術村は、新潟県刈羽郡小国町の山野田という集落にあります。
 そこは、長岡と小千谷と柏崎を結ぶ三角形のちょうどまん中あたり。「小国」という名の通り、周囲を低い山に囲まれた小さな盆地で、田中角栄の選挙区として知られた新潟三区に属する豪雪地帯。柏崎へ通じる峠路に沿った山間にある山野田の積雪は、4メートルにも達します。
「すばらしい紙漉きの集落があるんだよ」
 と、切り絵作家の西山三郎さんに誘われて、ぼくがここへ連れて来られたのは、おととしのことでした。
 西山さんは、腹ぺこの二十日ネズミのようなひとで、当時は前進座劇場の支配人。舞台美術家でもあり、前進座青少年劇場の名プロデューサーでもありました。理屈ばかりの新劇が肌にあわず、歌舞伎好きということで、妙にウマがあう仲なのです。ちょうど、前進座が「越前紙漉き唄」という芝居を上演しようとしていて、ぼくはそのパンフレットに紙漉きの村のルポルタージュを書くようにいわれていました。
 ―曲がりくねった山道を心細くなるほど車に揺られて、いきなり民話の「かくれ里」のように、その集落は姿をみせました。萱葺きの家々がどれも背が高いのは、積雪の冬に二階から出入りするからだと教えられました。
 道の奥まったところにあったのが、無形文化財に指定されている小国和紙を漉いている江口昭吾さんのお宅でした。―江口さんはこのあとまもなく、出稼ぎ中に脳溢血で亡くなって、残念ながら今はこの集落に、紙を漉く家は絶えています。
 小国和紙は「雪ざらし」という技法を特色としています。冬に漉きあげた紙を戸外に出しておくと、降り積む雪の重みで脱水され、春になるまで腐ることもありません。それを雪どけの陽光に干せば、素朴で暖かな白さをたたえた和紙が生まれるのです。雪という自然の厳しさを逆に活かした、すばらしい生活の知恵です。
 西山さんがこの集落に惚れこんだのはそればかりではなく、ここでは原料となる楮からトロロアオイまで、すべてが一貫した手作りで和紙が作られていることに魅かれたからでした。
 よい紙を作る作業は、畑の楮が枝わかれしないように手入れをするところから始まるのです。
「楮がよく伸びる年は、雪が深い」
 そんなことをおばあさんはいっていましたっけ。亡くなった昭吾さんが、黙って大輪のトロロアオイの花を、畑から摘んで来て見せてくれたのも忘れられません。
 昔、この集落では、しんと雪に閉ざされた寂しい夜、あちこちの家から、紙を漉く前に楮を叩く音が聞こえたものだといいます。
「けれど、今は工場でもっと色の白い障子紙がいくらでもできるからね」
 紙質の強さを買われて、三条凧に使われるのがせいぜいなのだと、おばあさんは口をへの字に曲げていました。
 小国和紙も、このままでは滅びるよりなかったようです。しかし、この伝統の技術の灯を、なんとか残そうと懸命になっている人たちとも出会いました。町役場に勤めている大久保重嗣さんや、大工をやっている片桐三郎さんです。
 片桐さんは、それまで冬の間、東京へ出稼ぎに行っていたのをやめて、赤字覚悟で紙漉きの工房を作ろうとしていました。「自分の建てた家の障子に、自分が漉いた紙を張りたいから」という笑顔がなんともさわやかでした。
 ここへ来て、西山さんの絵描きとしての「面白がり」精神がむくむくと頭をもちあげたらしいのです。
「デザインという付加価値をつけることによって、小国和紙ももっと売れるようになるんじゃないかな」
 などと、すっかり乗り気になってしまったのです。


 瞽女の唄に魅かれて

 しかし、昔四十戸以上の民家があったという山間の集落も、今は過疎の波に洗われて、十七戸を数えるだけになっています。これ以上数が減っては、やがて集落を維持することも難しくなると、役場の大久保さんは憂えていました。
「安く売りにでている家があるそうだよ」
 という話を西山さんから聞いたのは、それから間もなくのことでした。
「それなら買おうか」
と、即座にぼくがいったのは、西山さんの「面白がり」とはまたちょっと違った「面白がり」に衝き動かされたからでした。
 ー無形文化財の瞽女・小林ハルさんの芸に身も世もなく惚れこんで、ぼくが新潟県北蒲原郡黒川村の盲老人ホームに通い始めてから、早いものでもう九年になります。小林さんは、瞽女としての長い旅路の果てを、そこで静かに安らえておいでなのです。
「小国町にいってきましたよ」
と、最初の小国町訪問のあと、小林さんに報告しましたら、
「ああ、あそこなら、おらも小さいころ行ったことがある」
 門付けをして、お米をもらう代わりに、和紙を貰ったものだというのです。その和紙は三味線の皮の代わりに張ったのだそうです。
「紙なら、皮とちがって破れてもすぐはれるすけ、ぐあいがよかったものだ」
 小国の紙は強くてよかった、"紙漉きの衆"は平地のお百姓よりも瞽女を親切に迎えてくれた―ぽつり、ぽつりと小林さんはほほえみながら、昔を思い出してくれました。
 小林さんという"瞽女さ"にめぐりあってから、ぼくはどれほど多くのことを学んだかしれません。
 瞽女唄を"盲目の女旅芸人の滅びゆく唄声"としてしか、マスコミはとりあげませんが、決してそんなものではないのです。
 その歌声は深い人間の情感をたたえて、朗々と響き渡ります。思わず背筋がちりちりしびれるほど、人間の生の声の美しさを感じさせる芸―いまのテレビから聞こえてくる歌とは、土台から違っている芸なのです。
 盲目というハンデをのりこえて、芸に生きようとする小林さんは、厳しい修業で声を鍛えあげました。そして、それをささえていたのは、瞽女たちの訪れを待ちうけてくれた、雪国の村びとの優しさなのでした。
 こういう芸の伝統を絶やしてはいけない、と思いつめて、僕は竹下玲子君というオペラの研究生に頼みこんで、小林さんの弟子になってもらいました。竹下君も小林さんの芸と人柄に夢中になって、東京でアルバイトをしては、新潟の盲老人ホームへ通いつめてくれました。
 けれども、小国和紙とおなじように、瞽女唄をかえりみる人は少なく、竹下君の努力も「風変わりなものずき」としか、受けとってもらえないことが多いのです。
「師匠とおなじヤグラにあげて、弟子としてのお披露目を」と、小林さんのリサイタルを企画したときも、盲人を利用して何かたくらんでいるのではないか、というような目で見られたりしました。
 そんなこともあって、小国町にぼくが家を買おうと思ったとき、「いちどでいいから、そこで瞽女宿をやりたい」
 ということが、まっ先に頭にひらめいていたのです。
 これが、ぼくの「面白がり」でした。」(P.3-9)
T章 ぼくたちの文化 より(1986年12月)若林一郎/著


 若林一郎氏の思想

 東京の放送作家・若林一郎氏に会ったのは、昭和六十一年十二月、小国町太郎丸のふじのや旅館であった。
 西山三郎さんとともに「小国芸術村」の主要メンバーであった若林氏は、六十二年夏発行予定の『民話の手帖』に、越後小国の昔話特集をしたいというので、その打合せに来町されていた。氏は、昭和六年生まれ、鎌倉アカデミア演劇科を卒業し、放送作家としてNHK学校放送の脚本を数々手がけたベテランである。氏と新潟を結び付けたのは、人間国宝小林ハルさんの瞽女唄である。昭和五十二年、東京における小林ハルさんの瞽女唄公演に感激し、オペラ歌手竹下玲子さんをつれて胎内やすらぎの家にやってきたのが、昭和五十三年一月のことであった。
 以後竹下玲子さんは、小林ハルさんの最も若い瞽女唄の弟子となり、週末になるとやってきては、瞽女唄のてほどきを受けることになった。若林氏の瞽女唄への思い入れによって、小林ハルさんの瞽女唄は、若い竹下玲子さんにひきつがれることになったのである。
 若林氏と小国との結びつきは、五十八年前進座で上演された、水上勉の「越前紙漉唄」であった。文化庁の柳橋真氏に紹介されて、小国町山野田の紙漉きの様子を見学に来たことが契機となった。そのころ、山野田は、江口ミン・江口リツさんが紙を漉いていた。私は、そんなことはつゆ知らず、あとで、役場の大久保重嗣さんから聞いて知った。
 若林さんとは、一度、六十年八月の山野田の芸能文化人の集いで会っているのである。しかし、会って話したこともなかった。
 ふじのや旅館で、私は、若林氏から、「ぼくたちの文化―小国芸術村の発想」というパンフレットをいただいた。帰ってから、さっそくこれを読んだ。人間のぬくもりを持った地方文化のネットワークによって、中央マスコミのハイテク社会の文化を包囲しようと若林さんは、この中で書いていた。私は、これを読んだあと、この若林氏の発想に応えようとして、「父祖の地に住み継ぐ―小国芸術村への期待」を書こうと思いたった。大晦日の夜から書き出した私の原稿は、新しい年の明けた六十二年一月三日完成した。四百字詰め五十一枚、四日間で五十一枚の原稿を完成させたのは、今までにないことであった。
 若林氏は、今春(平成元年)太郎丸村芝居のために「梨木観世音由来」の脚本を書いて送ってきた。その中で木喰上人は、次のように語っている。
「江戸だの、京・大阪だのの人たちはな、お金儲けに忙しすぎて、仏様の声を聞けずにいる。この越後はな、雪が深ければ深いほど、人の情けもまた深い。そのやさしさに、仏はやどってござるのじゃ」
 これは、若林氏の「小国芸術村」へ寄せる思想そのものである。わが小国町も近年利益第一主義の考えが深く浸透しつつある。もはや、人間のぬくもりをもつ文化など、捜しようもないといってもよい。この人間のぬくもりをもった文化のかけらを、私は、これからも捜しつづけていかねばなるまい。」(P.156-157)
Z章 私と小国芸術村(高橋実/著)「柏崎春秋」連載(※発行年不明)

 出典はいずれも『地方からの発信―小国芸術村―』(越書房1990年刊)より。
 なお、昭和62年に開催されたフェスティバルで竹下玲子が瞽女唄を披露するのであるが、同時に紙芝居と昔話も演じられている。紙芝居の演者は、2011年84歳で脳梗塞で亡くなる前日まで全国各地で紙芝居の実演・指導にあたっていた紙芝居の第一人者、右手(うて)和子氏であることを付記しておく。

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