手元に『雪国の春』1984.7 越後瞽女特集 という素晴らしい雑誌がある。発行所が「柳田国男を読む会」とあるが、どういう経緯で越後瞽女を取りあげたのか伺ってみたい。
いずれ、寄稿者の承諾を得て、全文掲載したいとは思っているが、住所不明者や物故者が多く、いつになるかは分からないが努力したい。以下、目次を紹介するが、これを見ただけでも編集者の力の入れようがうかがえる。
目 次
口絵写真・瞽女旅を終えて 松井朋子
「葛の葉子別れ」から切り絵 西山三郎
米沢歩きのころ 小林ハル
米沢歩きの瞽女宿 佐久間惇一
越後ゴゼさまのこと 奥村幸雄
越後瞽女聞書抄 武田 正
米沢市塩井の瞽女宿 江田 忠
甦れ瞽女唄 若林一郎
師小林ハル女のこと 竹下玲子
瞽女宿再現 松谷みよ子
瞽女と瞽女唄と 丸川二男
口絵によせて 松井朋子
おもゑくどき[瞽女唄歌詞]
祭文松坂「葛の葉子別れ」1・2段[瞽女唄歌詞]
執筆者住所
編集后記
『雪国の春』1984.7 越後瞽女特集
江口儀雄・丸川二男/編集
柳田国男を読む会/発行
1984年7月30日
山形県西置賜郡白鷹町
74P
22cm
500円
ここでは、編集者の一人である丸川二男氏の文章の一部を引用させて頂く。
表題についての貴重な一次史料である。当事者の言を読むと何か微笑ましい、瞽女唄の原点のようなものを感じる。影絵劇団「かかし座」で唄語りをしていた竹下玲子さんと同伴者・若林一郎さんは、この当時から、瞽女唄普及の前線基地を求めて、目ぼしい土地を探していたとも考えられる。
[ ]内は引用者註(目次共)。
「6
六月○日[1983年] かねてから当地の恙虫病に関するものを見たいと言っておられた佐久間氏と、若林さんの台本をもって旅回りしている影絵劇団「かかし座」の高畠公演を機会に、合流して酒席をかこむことにする。竹下さんが語りをやっているかかし座の影絵芝居はたいそう手のこんだもので、唄語りと影絵とはこんなにも合うものかと認識をあらたにする。宿での遅い夕食後に高畠から白鷹へ、かつては多くの瞽女達が歩いた道を車で走る。
翌日、町の中を一(ひと)巡り。丈六地蔵で旅の道中安全を祈念したあと、昭和十二・三年頃まで瞽女をとめていた貝生の工藤家に寄って、ふすまを取り払えば五十畳余りの大広間になる座敷をみせてもらう。「瞽女様」は奥の床の間に泊まることになっていた由。丁度春蚕が上蔟した後で、小屋に下がった回転マブシの中で蚕が繭籠りしているところや、少しおくれてまだ桑を食べている蚕を見せてもらう。
深山の観音堂や瑞龍院の庭園をまわって昼食。午後はNHK新潟のVTRを観たあと、お二人の話を聞く。瞽女、あるいは盲人の生きがいとは何か、という盲人福祉の問題にまでふみこんだ佐久間氏の話や、伝統芸能における瞽女唄の占める位置についての若林氏の話は興味深いものであった。又、竹下さんには黒鴨に残っていた「おもゑくどき」を今の節にのせて唄っていただき、聞いたこともない声に一同、聞きほれる。
夕方、その晩の泊りの黒鴨に移動して山菜で一献かたむけあう。最近、これほど酒をうまく感じたのもめずらしい。そうしているうちに、私共が飲み食いしている二階の座敷に見知らぬ年寄衆がポツリ、ポツリと上がってくる。わけを聞くと、ここでゴゼさが唄を聞かせてくれるとか―というのでびっくりする。そんな予定はしていないのでどうしたものかとウロウロするが、若林さんは「サー竹下君、お客様がみえましたよ」などとすましておられる。なんとも致し方なく竹下さんに一、二曲唄ってもらう事にし、彼女、三味線を組んで「瞽女松坂」などを唄い出す。いったいこの先どうなることか気が気でない。近所に唄が聞こえたのか、まだ階段を登ってくる人がいる。
もっともこの地、黒鴨には善兵ェ、孫太郎、豊次とかつて多くの瞽女を泊めていた家があり、先日もある老女から、「瞽女さが来たから唄聞きにごんざい」と触れがまわり、同じ年格好の子供らもいい衣裳を着て髪結ってもらい唄を聞きにゆくが、自分は奉公人だったので聞きに行けなくて悔しかったのが今でも忘れられない、という話を聞いた。いうなれば、瞽女を受けいれる下地ができているのである。
しかし、唄や話のいつ果てるともしれぬ様子に年寄衆には「―時あらためて唄を聞く機会もうける事にして今日のところは―」と申し上げてお帰り願ったが、なんともその場の興奮さめず、また酒を酌みかわす。
翌朝、「夕べみたいなことはじめてェー」といいながら、若林、竹下の御両人は弥次喜多のようにつぎの公演地の長野に向かっていった。」
「瞽女と瞽女唄と」(丸川二男)より部分引用 P.56-7