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やすらぎの家施設長・塚本文雄氏急逝

ネットワーク前史kiroku

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竹下玲子と小林ハルとの共演

やすらぎの家施設長・塚本文雄氏急逝

 塚本文雄さんについては、1977年4月開所(開所後まもなく小林ハル入居)の社会福祉法人・愛光会養護盲老人ホーム「胎内やすらぎの家」の施設長であったこと、これすら公式のホームページに載っていないばかりか他の検索に引っかかってもこない。何歳で御他界されたかも不勉強で明らかではない。
 同じく福祉施設で三十年近くも小林ハルさんを見守ってきた桐生清次氏については、名著を物されたためもあるが、氏について多くの事を知ることができる。
 塚本文雄氏にこだわるのは、もし氏ほどの情熱をもって、小林ハルの芸を伝えたいと願う人がいなかったら、瞽女唄は既に絶え果てていたからである。氏の強い思いが、後の弟子・竹下玲子のハコヤ[註*]となり黒子として瞽女唄継承に尽力された若林一郎氏の肩を強く一押ししてくださったためである。「ネットワーク前史」を語る上で、瞽女唄継承の要ともなった方なのである。前史を語る上で、この塚本文雄氏と若林一郎氏との出会いが極めて重要であるだけに、もう少し塚本氏について本来は語りたいのである。
 この辺の経緯を当事者である若林一郎に語ってもらおう。

「次の日[日本芸術文化振興会主催「万歳と春駒」1978年3月24日・25日開催(会場:東京国立劇場小劇場)の二日目のこと]、客席になつかしい顔が現れて、ぼくに握手を求めて来た。施設長の塚本さんだった。ホームのための会議が終わったその足で、夜行列車に飛びのってきたのだという。「恋人」のおばあちゃんの様子が、心配でたまらなかったのだろう。
 公演が無事に終わったので、ぼくはささやかなお祝いのしるしに、半蔵門の東条会館に、小林[ハル]さん、塚本さん、佐久間[惇一]さんを招待した。ぼくの若い仲間のカメラマン・木村嘉秀夫婦なども加わって、祝宴はおおいに盛り上がった。「おばあちゃんのために」と乾杯が重ねられ、みんなでバンザイをして記念写真におさまった。
 その翌日、上野駅に小林さんたちを見送りに行くと、塚本さんが、
「若林さん、ゆうべも話した通り、おばあちゃんの芸の後継ぎをぜひ作ってくださいよ。お願いしますよ」
 と、なんどもいう。とても無理だとは思ったが、
「まあ、そのうちに考えてみましょう」
 と、握手をして別れた。

 それから二日して、電話があって愕然とした。小林さんとやすらぎの家に帰った翌朝、塚本さんが脳溢血で亡くなったという。
 まだあの温かな手のぬくもりが、ぼくの手に残っている。オペラの研究生たちを連れていったとき、仕事のひまをみつけては、塚本さんはそっと稽古の部屋に入って来た。そして眼鏡をはずし、うつむいて目をつむって、じっと唄声に聴きいっていた。絶えず優しい心遣いで、みんなを励ましてくれたのも塚本さんだった。
「おばあちゃんの芸の後継ぎをぜひ作ってくださいよ」
 はしなくも、最後に別れたときいわれた言葉が、塚本さんの遺言となった。」


「塚本さんの死に、やすらぎの家は悲しみに閉ざされた。特に小林[ハル]さんの受けたショックは大きかった。自分の芸をだれよりも理解し、それを続けられるように励ましてくれた塚本さんを、小林さんは杖とも柱とも頼りにしていた。その塚本さんを、弟子の土田[ミス]さんの死に続いて、突然失ったのだ。
「おばあちゃんが、唄も三味線も捨てるといいだしている」
 という、佐久間さんのお便りをもらって、ぼくはうろたえた。
「こうなったら、あいつに頼むよりない」
 と、白羽の矢を立てられたのは、竹下玲子君だった。」
『瞽女唄伝承』若林一郎著P.101-103

[ ]内は、はすえ註。箱屋:客に呼ばれた芸者衆のお供をして三味線を入れた箱を持ち歩く男衆をさす言葉。竹下玲子と共に出演し、瞽女唄等の解説をする。後に自ら自嘲して「はこや」を名乗り「はこやのたわごと」と題して竹下玲子の近況報告などを知人に送付を始め、原稿用紙にして優に四千枚を超える芸能日誌を書き綴る。

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