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小林ハル、瞽女唄伝承者として無形文化財に指定される

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竹下玲子と小林ハルとの共演

小林ハル、瞽女唄伝承者として無形文化財に指定される

 昭和53年3月25日、小林ハルは瞽女唄伝承者として無形文化財に指定される。
 誤って「人間国宝」小林ハルと紹介されることが多いようだが、文化庁により「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」に選択された方というのが正しい(「人間国宝」は重要無形文化財保持者のこと)。
 それはさておき、この扱いについて、国の無形文化財に対する対応を批判している文章があったので引用したい。文意をうまく要約出来ないのだが、「無くなってしまうなら記録しておけばいいじゃん」というだけの国の「文化」に対する浅薄な態度に対する批判であることは確かだろう。少し長くなるが、瞽女と盲僧琵琶との関連を示唆するものとしても興味深いので、その部分を引用させて頂く。
「(1)記録作成等の措置を講ずべき無形の文化財の問題
越後などに遺存してきた盲人女性放浪芸人瞽女については、昭和45年(1970)に新潟県在住の杉本ハルと埼玉県在住の伊平たけの2人の技芸者が、文化庁の記録作成等の措置を講ずべき無形文化財に選択され、さらに昭和53年に新潟県在住の小林ハルも同様の措置の無形文化財に選択され、それぞれ録音記録が作成された。その後昭和52年に伊平が、同58年に杉本が他界し、そして平成17年に小林が亡くなってゴゼの命脈が絶えたのであった。一方、九州一円に伝承をみてきた盲僧琵琶についても、これらの全てに対して文化庁の同様な措置が取られたわけではないが、同じような運命をたどった。福岡市の成就院の筑前盲僧は、玄清流盲僧琵琶の名称で福岡県の無形文化財の指定を受けていた。鹿児島県にも薩摩盲僧がおり、熊本県で活躍していた盲僧達は肥後琵琶と称され、こちらは昭和48年に文化庁からの当該措置を受けていた。これらの人達は一人欠け二人欠けと他界して行き、先年まで大分県の国東半島の盲僧が活躍し名をはせていたのだが他界し、そして本年に入ってそれこそ最後の盲僧琵琶の語り手といわれていた宮崎県の永田法順氏(延岡在)が亡くなり盲僧琵琶の命脈は絶えてしまった。九州の盲僧は瞽女とまた違って仏寺の僧であり、時に住民の家に呼ばれて行って竈払いをして地神経を唱え、その際余興的な語り物も加えるということをやっていた。ところでこの双方の伝承とも盲人の語り物芸といったもので、そういう職人芸は確かに芸能の歴史をいろどってきた存在でありその点から貴重なものであった。時勢がそいう[ママ]職業を存在させなくなったし、ほかにテレビやその他語り物余興の代替芸も新たにポピュラー化したこともこれあり、もうすでに存続が風前のともしびと衰退していた。そこで行政サイドは記録作成等の措置を講ずべき無形文化財としての選択を行った。この措置はいわば事後の存続はもはや無理だという判断が背後でなされていたようなものだ。ここで一つ気になるのは、盲僧琵琶の実情は知らないが、瞽女の小林ハルには盲人ではないが小林の技芸を受け継ぐべく稽古に励んだ女性がいたことと、記録作成等の措置を講ずべき無形文化財として文化庁から選択を受けていた伝承が、後に重要無形文化財に指定されて後世への維持継承が誘われた事例もあるということである。例えば昭和39年に同記録作成等の措置を講ずべき無形文化財に選択されていた「下座音楽」が時勢の移り変わりとともに、昭和53年に重要無形文化財に指定され、技芸者の十一世田中伝座衛門がその保持者(俗に言う人間国宝)に認定されたのである。このようなこともあるので、この選択措置を講じたからといって、決してその技芸は滅びてかまわないなどという扱いはしてはならないのだと思う。ユネスコに緊急に保護すべき無形文化遺産リスト登録の事項があるが、この場合とて同様に考えられるのではないか。」
(P.34-35)
無形文化遺産保護の挑戦−日本国内およびアジア太平洋諸国を訪れて−」(星野 紘/著) 「東京文化財研究所」HOMEPAGE より
(出典は、『無形文化遺産研究報告4』編集/独立行政法人国立文化財機構東京文化財研究所『無形文化遺産研究報告』編集委員会/平成22年3月31日発行)
<著者略歴>
星野 紘(ほしの ひろし、1940年 - )は、日本の比較民俗学者。新潟県生まれ。京都大学文学部卒業。文化庁主任文化財調査官、国立東京文化財研究所芸能部長、東京文化財研究所名誉研究員。日本とアジアの民族芸能の調査研究を行った。
著書
  『歌垣と反閇の民族誌 中国に古代の歌舞を求めて』創樹社 1996
  『歌い踊る民』勉誠出版 2002 遊学叢書
  『芸能の古層ユーラシア』勉誠出版 2006
  『世界遺産時代の村の踊り 無形の文化財を伝え遺す』雄山閣 2007
共編著
  『歌・踊り・祈りのアジア』野村伸一共編著 勉誠出版 2000 遊学叢書
  『シベリア・ハンティ族の熊送りと芸能』チモフェイ・モルダノフ共編 勉誠出版 2001
  『人はなぜ歌い踊るのか』編 勉誠出版 2002
  『日本の祭り文化事典』芳賀日出男と監修 全日本郷土芸能協会編 東京書籍、2006
  『村の伝統芸能が危ない』編 岩田書院、2009
ウィキペディア「星野 紘」の項より

 ちなみに、新潟県出身者での音楽部門で、記録作成等の措置を講ずべき無形文化財に選択されたのは、
ごぜ唄(杉本キクイ(亡)、伊平たけ(亡)) 昭45.4.17 上越市・刈羽郡
ごぜ唄(小林ハル(亡))          昭53.3.25 胎内市
(名称・選択年月日・所在地の順。「新潟県の文化財一覧」P.16より)
 この三人の略歴も書いておこう。
杉本キクエ すぎもと-キクエ(←芸名:杉本ハル、通称:杉本キクイ)
1898−1983 大正-昭和時代の瞽女歌(ごぜうた)伝承者。[旧姓青木]
明治31年3月5日生まれ。6歳で失明し、新潟県高田の瞽女(ごぜ)集団の杉本家にはいる。[満5歳、麻疹がもとで失明。6歳で高田瞽女の親方杉本マセに弟子入り、マセの養子となる。芸名ハル、後に初梅。23歳で家を継ぎ、親方となる。]瞽女集団が消滅するなかで瞽女歌の伝承につとめ、昭和45年選択無形文化財保持者に指定された。[昭和48年11月黄綬褒章受章。]昭和58年3月30日死去。85歳。新潟県出身。レコードに「越後の瞽女唄」「越後瞽女のうた」。
 引用した星野氏の文書中に出てくる「杉本ハル」は「杉本キクエ」のことである。杉本ハルは、上では芸名とあるが、これは引かせて頂いた「コトバンク」で用いられている言葉で、正しくは瞽女名である。
 [ ]内は、『瞽女 信仰と芸能』鈴木昭英著 P.13より補記。
 なお、名称で、このサイトでは「杉本キクエ」を採用しているが、多くは(誤って)「杉本キクイ」となっている。

伊平タケ いひら-タケ
1886−1977 明治-昭和時代の瞽女歌(ごぜうた)伝承者。
明治19年1月30日生まれ。5歳のとき失明。武田ヨシ、小林ワカの弟子となり、9歳から各地を巡業。22歳で親方の資格を得、27歳で結婚。昭和2年ラジオ放送に出演、3年レコードの吹き込みをする。45年選択無形文化財保持者。[昭和48年11月黄綬褒章受章。]昭和52年2月24日死去。91歳。新潟県出身。旧姓は丸山。本名はソイ。
(出典は、同じくコトバンク「伊平タケ」の項)
 [ ]内は、上に同じ。

小林ハル こばやし-ハル
1900−2005 明治-平成時代の瞽女歌(ごぜうた)伝承者。
明治33年1月24日生まれ。生後100日ほどで失明し、5歳のとき瞽女のもとに弟子入り。9歳で門付けをはじめ、73歳まで現役をつづけた。持ち歌は「石童丸」「小栗判官照手姫」など700曲をこえる。昭和53年選択無形文化財保持者に指定された。[昭和54年黄綬褒章受章。]平成14年吉川英治文化賞。弟子に竹下玲子。平成17年4月25日死去。105歳。新潟県出身。
(出典は、コトバンク「小林ハル」の項)
[ ]内は、「瞽女ふたたびの道 小林ハル年譜」により補記。
コトバンクの注によれば、
「出典:講談社(C)Kodansha 2009。書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。収録人物のデータは2009年1月20日現在のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。」とあるので付記しておきます。

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