先から引用ばかりさせて頂いている『瞽女唄伝承』だが、このあたりの事情について触れている資料になかなか出会わないので、申し訳ないがまた、引用させて頂く。
その前に「こんにゃく座」という聞いたことのない人の方が多いと思うオペラ劇団があった。この研修生に、東京声専音楽学校を卒業して、オペラ歌手をめざして勉強中の竹下玲子がいたのである。「オペラシアターこんにゃく座」について、ウィキペディアから引用させて頂く。
「1965年、東京芸術大学声楽科3年生の6名により、「こんにゃく体操クラブ」が結成され、1971年には有志8名によって「オペラ小劇場こんにゃく座」を結成。1974年9月の「あまんじゃくとうりこひめ」(林光作曲)北海道公演を林光が見に行ったことから、こんにゃく座は林光を音楽監督として迎える。1985年に会の名称を「オペラシアターこんにゃく座」と改め、現在に至る。こんにゃく座主催の東京公演他、学校やおやこ劇場等200〜300公演の活動を続けている。
林光、萩京子が「こんにゃく座」のために作曲したピアノ演奏あるいはピアノを中心とした小編成の楽曲を用い、ベルカント唱法ではない「内容を聞き取れる歌唱表現」を目ざしている。」ちなみに、「あまんじゃくとうりこひめ」の台本は若林一郎。
このあたりの記述をさらに深めるためにも、若林一郎の『瞽女唄伝承』が必要なのだ。長文になるが、この辺の事情がかなり明確になるので、お許し願いたい。
「そもそも、ぼくがオペラとかかわりをもつようになったのは、NHKの学校放送のために「あまんじゃくとうりこひめ」という台本を書いたことに始まる。作曲は林光君だった。
この「あまんじゃくとうりこひめ」というオペラは、それから舞台でも何度か上演されて、そのつど閉口させられた。
なにより問題だったのは、歌詞の日本語がよく分からないことだった。
ハトが豆鉄砲をくらったみたいな目をして、ベル・カントで歌われたんじゃ、民話の味わいもなにもありゃしない。セリフのやりとりも、レシタティーボ風の西洋発声で、まったくの「唐人の寝言」だ。そんなステージの薄気味悪さに、日本のオペラ歌手たちは、まったく気づいていないのだから、どうしようもなかった。
「西洋発声では日本語の歌は歌えませんよ」
と、ズバリといって、ぼくをびっくりさせたのは、作曲家の間宮芳生さんだった。
間宮さんのオペラ「昔噺人買い太郎兵衛」の台本をぼくが書いたのが縁で、この日本の現代音楽の異才には、ずいぶんいろいろなことを教えられた。
そういえば、この作品を、最初ラジオドラマとして放送したとき、狂言の野村万之丞、万作ご兄弟に出演してもらったのも、得難い経験だった。
その稽古のとき、間宮さんと聞いた万作さんの狂言小謡は、いまもその美しい響きをぼくの耳に残している。
「植ゑい 植ゑい 早乙女」という歌詞だった。
「植ゑい」の〈ゑ〉は〈え〉ではなく、〈早乙女〉も〈さおとめ〉ではなく〈さをとめ〉と、伝統の発音通りにきちんと伸びやかに謡われているのに、舌を巻いた。
そんな体験のお蔭で、間宮さんもこの台本をオペラにしようと思い立ったのだろう。
その後、劇団仲間のために書いた「かぐや姫」でも、作曲は間宮さんにお願いした。この芝居は、日本で作られたミュージカルのはしりといってよかった。さまざまな民謡に彩られて物語は進行する。間宮さんのすばらしい作曲は、台本作者の力不足を補って余りあった。
この芝居がのちに、日本新劇団訪中公演のレパートリーになったのもそのせいだと思っている。
「ぼくにとっての理想の声はねぇ、〈野の声〉ですよ」
と、間宮さんはいつもいっていた。
彼によると、日本には三つの民謡の宝庫があるという。ひとつは津軽、それから越前の五箇庄、もうひとつは日向の椎葉の里。どこも山の中だが、そこには素朴でおおらかな〈野の声〉が生き残っているのだという。
「三味線などをヘタに入れたりして、お座敷の民謡になったらだめだけどね」
もうひとつ、仏教音楽の「声明(しょうみょう)」の発声法も、日本語の歌の基本になるという。奈良の東大寺のお水取りにいって、そこで唄われる声明に感動したのだという。
こうして、ぼくも「門前の小僧」として、日本語の発声に興味を抱くようになっていたのだった。
そんなところへ、たまたま「こんにゃく座」というグループが、「あまんじゃくとうりこひめ」を上演してくれたのがきっかけで、ぼくは彼らに肩入れすることになる。
なによりも、このグループが、すなおに日本のことばをきちんと伝える歌い方をしているのが、とても新鮮で、気に入った。それもそのはず、「こんにゃく座」は、「日本語のわかるオペラ」を、その目標に掲げているグループだったのだ。
この奇妙な名前のオペラ・グループの中心メンバーは、東京芸術大学の卒業生たちだった。
彼らは大学時代から、「舞台での自由な身体的行動」のために宮川睦子さんが考案なさった体操をやっていた。体をブルブルと震えさせたりするふしぎな体操で、生徒たちは「こんにゃく体操」というニックネームをつけていた。それがそのまま劇団の名前となったのだという。
そして、創立当時は、座長だった藤本高茂君をボイス・トレーナーとして、西洋発声の技巧を捨てた「地声」の発声をめざしていた。なによりもそう心掛けるだけで、ずっとすなおに日本語が伝わる歌になるのだ。
謡や声明のレッスンもやっていて、ときどき見学させてもらった。
声明の先生は、どこかのお寺のお坊さんだったが、
「そういう声じゃなくて、もっと演歌のような声をだしてください」
と注文して、座員たちをとまどわせていたのも、懐かしい。彼らは演歌の歌い方を忌み嫌う音楽教育を受けてきたのだから、めんくらうのもむりはなかった。
そうして「新しい日本のオペラ」を模索する姿がさわやかだった。もしかしたら、ここから伝統に根ざした現代の芸能が生まれるかもしれない。ぼくはますますこのグループにのめりこんでいった。
この「こんにゃく座」が、林光君を校長に迎えて、新人養成のため「オペラの学校」を開くことになったのは、昭和五十年のことだった。ついてはぼくにも講師になってほしいという。ふたつ返事で引き受けて、「演劇史」と「演技実習」を担当することになった。ぼくの血液型はO型で、「教えたがり屋」の血なのだそうだ。
試験を受けにきた二十人ばかりが、ほとんどそっくり生徒になった。音楽学校の学生、小学校の音楽教師、高校を出たばかりの浪人、ソ連に留学してきたという歌手、顔ぶれは多彩だった。
その生徒たちのひとりに、竹下玲子君もいた。彼女は長崎の商業高校を卒業したあと、OLをしながら声楽のレッスンをうけていたが、
「親元を離れて暮らしてみたくなって」
上京して、魚河岸近くの会社に勤めながら、大久保の東京声楽専門学校に通っていた!「これでもコロラチューラ・ソプラノだったんですよ」
と、そのころを思い出して彼女はいう。
教室は阿佐ヶ谷の宮川先生のスタジオだった。授業は週三回、午後六時半から三時間。寺子屋のようなムードは、ぼくに少年のころ通っていた鎌倉アカデミアを思い出させた。でかけるのが楽しみで、こちらに関係のない授業にもよく顔をだした。
すつかり感心したのは、教頭役のボイス・トレーナー、藤本君のレッスンだった。
生徒たちが歌うのを、彼はあごに手を当てたりして、しばらく眺めている。そのうち、ひょいと生徒に近づくと、生徒のあごに手をやって、首をいままでと違う方向にむけさせる。ときには、背中をスッとなでるだけのこともある。
「あれェ?」
と、見学している生徒たちが、いっせいに驚きの声をあげる。
まるで魔法だった。いままで、どこか不自由なこわばった声だったのが、アッというまにのびのびとした豊かな声に変わっている。
「どうだい?」
歌い終わった生徒に藤本君が尋ねる。
「はぁ、ずっとラクです」」(『瞽女唄伝承』P.56-60)
ただ、私が聞く限りにおいてだが、当時からNHKの「みんなのうた」で歌っておられた西洋発声を学ばれた方々の歌声は決して何を言っているのやら分からないものではなく、しっかりとした日本語として聞きとれたし、また、その歌を楽しみにもしていた。私の好みの歌い手さんは友竹正則さんだった。ただ、確かに歌曲が好きだった父に連れられて行った独唱会などで聞く西洋発声で何を歌っているのかわからない日本語に接したことがあることも事実である。