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山内雅人主催「話芸小劇場」での公演『瞽女文学の夕べ』について

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竹下玲子と小林ハルとの共演

山内雅人主催「話芸小劇場」での公演『瞽女文学の夕べ』について

 この昭和52年に瞽女唄ネットワーク設立の陰の立役者、東京在住の放送作家・若林一郎は、山内雅人主宰の「話芸小劇場」の『瞽女文学の夕べ』を聴きに行き、そこに出演した小林ハルの歌声に魅入られるのである。
 若林のその時の衝撃を伝える前に、ここで登場する山内雅人氏と氏が主催する「話芸小劇場」の『瞽女文学の夕べ』について若干触れてみたい。
 山内雅人(やまのうち まさと、1929年4月3日 - 2003年4月7日)「男性俳優、声優、ナレーター。東京都出身。早稲田大学法学部卒業。本名、山内幹雄。別名に、山ノ内雅人、山内幹也がある。
 主に洋画吹き替えで活動し、モンゴメリー・クリフトやタイロン・パワーなどの二枚目俳優を担当した。美しい話し言葉の普及と朗読に力を入れ、朗読会や朗読教室を主宰。山内が金田一春彦と共に設立した「放送表現教育センター」は、日本初の朗読の専門学校で、やがてナレーターや声優の養成所となり、山内は代表を務めて後進の指導にあたり、ドラマチックリーディングという読み聞かせ方法を提唱していた。」(以上、ウィキペディア「山内 雅人」の項より)
 「話芸小劇場」については、山内雅人氏が主催する朗読などを中心とした小劇場としかなく、詳細は現段階では不明である。ご存知の方がおられたら是非お教えいただきたい。
 その「話芸小劇場」で開催された『瞽女文学の夕べ』については、やはりウィキペディアの「小林ハル」の項に記載されている。その部分を引用してみたい。
 「あやめ寮入所と同時に芸を捨てたつもりのハルであったが、養女夫婦のもとで身の振り方に悩んでいた頃に温泉旅館で國學院大學の民俗学者に唄を披露したことがきっかけとなり、専門家や文化人を中心に世間の注目を集めていった。やがて新発田市教育委員会がハルの瞽女唄の保存を企画したことをきっかけに、ハルは一度は捨てたはずの芸を再び披露していくことになる。
 新発田市教育委員会が企画したハルの瞽女唄の保存事業は、1973年(昭和48年)から1975年(昭和50年)にかけて行われた。この時録音された唄は120分テープ40本分に及び、その一部が1977年(昭和52年)2月にNHK-FM放送の番組『朗読』で放送された。さらにこの放送を聴いた声優の山内雅人の誘いを受け、同年11月、東京開催された「瞽女文学の夕べ」でハルは『明石御前』を披露した。この頃からハルは数多くの取材を受けることになる。「瞽女文学の夕べ」はハルに新たな弟子ももたらした。公演を鑑賞した放送作家の若林一郎から弟子入りを志望する3人の女性を紹介されたのである。最終的には3人のうち竹下玲子だけが残った。その後、1993年(平成5年)には萱森直子が弟子入り。萱森がハルの最後の弟子である。竹下と萱森は後進の指導にも当たっており、ハルの瞽女唄はその死後も後の世代へと継承されている。」

「この文章は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0の下で公表されたウィキペディア日本語版の項目『山内雅人』内の文章全文を利用して記述しています。 この文章は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0の下、二次利用できます。『小林ハル』は、記事の一部引用です。」

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