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越後長岡 語りの世界(報告) ご挨拶

開会のご挨拶 data

開会のご挨拶

瞽女唄ネットワーク会長 鈴木昭英


地域の伝統文化に関するイベント「越後長岡 語りの世界−昔話と瞽女唄−」にようこそご来場くださいました。この催しは(財)長岡市芸術文化振興財団の市民企画公募型事業に瞽女唄ネットワークが企画・提案して実施の運びとなったものです。
長岡を中心とする中越地方は、物語を人に聞かせる「語り」の文芸が著しく発達した地域です。その「語り」の仕方に「話語り」と「唄語り」があります。前者はどこの家庭にも伝えられてきた昔話(民話)に、後者は瞽女の語る口説節にその典型が見られます。長岡地方にはかつて昔話を100話以上語る人が大勢おられ、民話の古里であったことが知られています。瞽女は、長岡瞽女が中越地方一帯に分散居住し、明治中頃には400人を超える大集団を形成、広く関東から東北地方まで旅をし、語り物と歌謡の芸能を大勢の人びとに送り届けました。
この催しは、今から40年ほど前に昔話語りと瞽女の生態を追って制作された2本の映画をご覧いただき、その実像に触れていただきます。次に、それらの語りを学ばれた皆さんから得意とするところを口演していただきます。語りには巧みな手法があり、どのようにして語りの雰囲気が醸し出されるかを知るとともに、長岡が語り文芸の拠点であり、発信基地でもあったことをご認識いただければ幸いです。


長岡地方の「語りの世界」(概観)

物語を人に聞かせる仕方に「話語り」と「唄語り」があります。「話語り」は人に話かける形で語るものであり、「唄語り」は一定の旋律をもって歌いながら語るもので、楽器による伴奏をともないます。長岡を中心とする中越地方は、これらの語り文芸が極めて盛んな土地でした。

【昔話】

「話語り」で広く普及していたのは昔話(昔語り)でした。郷土出身の昔話研究家・水沢謙一さんが、長岡には100話以上を語る人が大勢おられたことを確認しております。長岡は昔話の宝庫だったと言ってよいでしょう。
昔話は、子どもたちが夜炉端に居るときや寝るときなど親あるいは祖父母からよく聞かされたものです。秋の収穫祭や正月の予祝祭などにも聞いたものです。昔話を語るには一定の形式があります。出だしや終りにはきまった共通する文句が用意されています。登場する人物や動物などに成りきった声で語り、擬音語を発して理解を容易にします。手振り、身振りを加えることもあります。話の内容は多彩ですが、善悪の行為によってそれ相応の果報を受けるとする教育的意味を持つものが多く見られます。各地に類話が多く伝えられているのは、諸方を巡回する宗教者・巡礼・芸能者・商人などが各地で語ったものがそこに定着したためだろうといわれています。

【瞽女唄】

「唄語り」の典型は盲目女性の旅芸人・瞽女に見られます。長岡瞽女は瞽女頭・山本ゴイが大工町(現日赤町)に屋敷を構え、明治中頃には中越地方一帯に分散居住する400人以上の瞽女を治め、日本最大の仲間集団を形成しました。そして県内はもとより、関東一円、さらに東北の奥深くまで足を運び、人々の生活や芸能の文化形成に大きな影響を与えました。 瞽女は、三味線の伴奏に乗る唄は何でも覚えて歌いますが、何といっても本領は「祭文松坂(さいもんまつざか)」(段物)と「口説(くどき)」です。祭文松坂は「哀れ節」「泣き節」の異名もあるように、哀れさを切々と語るところに特徴があります。古い伝統のある説経節の流れをくむ語り節だからです。口説は祭文松坂を崩したものですが、三味線の調子や歌う旋律にも独特のものが見られます。

【チョンガレ語り】

瞽女とともに長岡で忘れてならない語り芸人に男性盲人の座頭(ざとう)がおりました。彼らもいろいろな語り芸を致しましたが、特に盛んだったのは「チョンガレ語り」(チョンガレ節・五色軍談)です。長岡には川上派・花川派・筑摩派その他の流派が生まれ、川上松月のような名優を幾人も輩出しました。チョンガレは、話語りをする「語り」の部分と、曲節をつけて詠唱する「節」の部分とを交互に語るもので、浪花節(浪曲)に似ています。しかし、チョンガレ節は浪花節より早くこの地に定着し、隆盛を極めました。語り手が男性であり、武勇伝や仇討話など勇壮な物語を語るのが特徴です。このようにチョンガレは「話語り」と「唄語り」の両方を合わせ持つ点で注目されますが、今では伝承者のいないのが惜しまれます。

【祭文(さいもん)語り】

この名で呼ばれる芸人があちこちの村に出て、諸方を徘徊し、活躍しました。晴眼の男性で、瞽女と同じように昼は門付けをし、夜は民家の宿で語りの興行をしました。門付けには金錠(きんじょう)(手錫杖(てしゃくじょう)の環(かん)を取ったもの)を振り、法螺貝(ほらがい)をデロレンデロレンと吹き鳴らしながら祭文を語り、夜はまたこれらの楽器をつかい、調子を取るためツケ(拍子木)や張扇(はりおうぎ)で机を叩き、物語を2段、3段と区切り、中休みを入れて語りました。哀調帯びた口説節や軍記物を得意としています。

【阿保陀羅経(あほだらきょう)】

願人坊主(がんにんぼうず)が2つの小さい木魚を左手に持ち、棒を右手に持ってポコポコ叩いて門付けをした。口説節をお経の文句にことよせて語るので「阿保陀羅経」と称されました。

【その他】

様々の芸人が、近世から近代にかけて長岡の町や周辺の村々を巡り、門に立って祝言を述べました。三河万歳・大黒舞・春駒(はるごま)・千俵(せんだわら)・猿回しなどで、多くは新年をことほぐため初春に集中した、飴売り・読売りなども地域を訪れ、物語唄を歌いました。昔は実に多様な芸人や商人が回ってきて、それ相応に用意した唄の数々を歌ってくれたものです。



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