平成28年10月23日(日曜日)
午後1時30分〜3時30分
アトリウム長岡(長岡市弓町1丁目5-1)
今回の演目は、伝統的な瞽女唄で有名な演目、祭文松坂(さいもんまつざか)「赤垣源蔵」のほか、民謡などです。
1,000円(中学生以下無料)
長岡市旭町2-1-3 405 佐々木東一
電話:0258-34-7584
※瞽女唄公演プログラム(演目解説付)pdfはこちら
演 目 ・ 解 説 | 出 演 者 |
---|---|
口説「正月祝い口説」 めでたづくしのことほぎの唄。口説の詞句は七七調。出だしのひと言以外は、ふた言で一節を構成。三味線は二上がり。 越後の正月は、雪が深いところでは戸ごとに歌いつぐ門付けは不可能。親しくしている家にだけ上がり、家族の人たちに新年の挨拶をし、居間や座敷でこの祝い唄や春駒、三河万歳、その他の所望の唄を歌った。この風習を「春語り」と言った。 雪の降らない関東地方の人たちは、口説を好んだ。口説が歌われないと関東の旅商売はできなかった。瞽女が正月に訪れると、農家は神棚に蚕の種紙を飾っているが、そこにこの唄を歌ってほしいと頼んだ。 春蚕はるごが生まれた頃に行くと、蚕棚のところに導いて、ここに歌ってくれと言う人が多くいた。蚕が太り、良い繭がたくさん取れるのだという。 |
唄:須藤鈴子・金川真美子 「正月祝い口説」 を聴く 4分31秒 mp3(4.15MB) |
祭文松坂「赤垣源蔵」いとまごいの段 赤坂源蔵は、播州赤穂城主浅野内匠頭長矩の仇に報いるため、元禄15年(1702)12月14日夜、江戸本所松坂町の吉良邸を襲った47士の1人赤埴源蔵に擬した物語上の人物。講談、浪曲などで取り上げられたが、講談の義士銘々伝「赤垣源蔵徳利の別れ」が有名。歌舞伎でも河竹黙阿弥が「仮名手本硯高島」(通称、赤垣源蔵)に脚色し、安政5年(1858)5月、江戸市村座で上演。この物語は瞽女も取り入れ、「いとまごいの段」として語ってきた。 赤垣源蔵は、吉良邸討入りの前日、雪の降りしきる中、いとまごいのため兄塩山伊左ェ門を訪ねたが、不在。兄の紋服の前に大徳利をそなえて別れを惜しむ。講談では、その後に妹が嫁いだ田村縫右ェ門を訪ねたが、彼に浪士の不甲斐なさをなじられる。その義父に、近々旅をするので別れの挨拶に来ましたと言うが、討入りすることは明かさない。それでは酒をと勧められ、酒の飲めない源蔵が珍しくも数杯受け、別れを告げて立ち去った。義父はその後討入りを知り、源蔵が今生の別れに来たことを知り、大いに悔やんだという話。 瞽女唄「赤垣源蔵」は、播州辰野城主脇坂淡路の留守居役、塩山伊左ェ門の弟とされる。討入りの前夜、兄にいとまごいに来たが、兄は公用で出かけて不在。帰りを待って酒を飲み、やがて高いびき。夕方目を覚ましたが、兄はまだ帰らない。下女のおすぎに頼んで兄の普段着を出してもらい、それを柱の釘にかけて持参した酒肴をそなえ、「兄上、召し上がれ、お流れ頂戴致します」と言って酒を飲み、急いで雪の中に出て行った。伊左ェ門はひと足ちがいで帰ってきた。眠りに就いたが眠られない。外で窓下を駆け行く人が、浅野内匠の家来が吉良の屋敷に討入りし、めでたく本懐を遂げられたという話を聞く。伊左ェ門は急いで中間の市助を呼び、「見届けて参れ」と吉良邸へ走らせた。 |
唄:室橋光枝 赤垣源蔵(一の段) を聴く 19分53秒 mp3(18.2MB) 唄:須藤鈴子 赤垣源蔵(二の段) を聴く 17分19秒 mp3(15.8MB) 唄:金川真美子 赤垣源蔵(三の段) を聴く 42分38秒 mp3(39.0MB) |
民謡「伊勢音頭くずし」 伊勢音頭は、三重県伊勢地方で生まれた民謡の総称。宇治山田市の古市の盆踊り唄や川崎音頭、農村の祝儀唄が母胎といわれるが、古市の遊郭で歌われ、文化(1804〜14)頃から有名になった。伊勢神宮に詣でた人たちのために神宮中心に歌われたものもあり、瞽女もよく歌った。旅の宿へ泊めてもらったお礼に「朝立ちの唄」として歌う瞽女が多くいた。 |
唄:室橋光枝 伊勢音頭くずし を聴く 2分26秒 mp3(2.23MB) |