瞽女唄のレパートリーは広く、曲目も多彩である。中世末から近世にかけて語られた説経節の流れをくむ祭文松坂(さいもんまつざか)(段物)とそれを崩した口説(くどき)、浄瑠璃(じょうるり)流派の常磐津節(ときわずぶし)・清元節(きよもとぶし)・新内節(しんないぶし)、三味線歌曲の長唄・端唄、それに各種の祝い唄・門付け唄、地方の民謡、時代のはやり唄などを自家薬籠中のものとして歌いこなす。このなかで、祭文松坂は七五調の一言(ひとこと)文句を数言で一節(せつ)とし、三味線の間奏を入れて次の節に移る。長岡瞽女は強靭な声で語るのが特徴。節(せつ)の最後の一言の前3、4音を前句に付けて直ちに歌い継ぎ、その節が次で終わることを予告するという配慮を取る。口説は七七調の文句二言を一節とし、祭文松坂とは異なる曲調で語っていく。
→ 解説を聞く 7分4秒 mp3(6.49MB)
昭和7年生まれ。長岡市出身。大谷大学大学院文学研究科博士課程終了。大阪市立博物館学芸員、長岡市立科学博物館長、長岡市郷土史料館長を歴任。現在、長岡市文化財保護審議会委員。瞽女唄ネットワーク会長、瞽女文化を顕彰する会理事長、日本宗教民俗学会顧問、民俗芸能学会評議員、新潟県民俗学会理事。博士(文学)。
演 目 ・ 解 説 | 出 演 者 |
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祭文松坂 佐倉宗五郎 子別れの段 (さいもんまつざか さくらそうごろう こわかれのだん) 下総佐倉領の義民・佐倉宗五郎の物語。宗五郎は上岩村の名主であったが、領主堀田正信の悪税に苦しむ264ケ村の総代として、滝沢村の六郎右衛門とともに江戸へ上り、お上に嘆願書を提出したがそのかいなく、老中へ駕寵訴(かごそ)した。佐倉の城下へ奪い取られたが、天下の楽隠居大久保彦左衛門が獄屋をもらい下げ、上野東叡山へ3年を限って預けられた。日数が満ちて放免となり、将軍への直訴を思いたち、その前に女房や子どもに罪の及ぶのを恐れて女房に去り状を渡すため古里に帰る。その途中の場面を語る「甚兵衛渡しの段」と「子別れの段」が有名。 |
唄:室橋光枝 佐倉宗五郎 を聴く 27分56秒 mp3(25.5MB) |
正月祝口説(しょうがついわいくどき) 正月をことほぐ唄。七七調のめでたい言葉を並べたて、瞽女独特の口説節で歌うもの。二言(ふたこと)で一節(せつ)をなし、間奏が入る。三味線は二上がり。特に養蚕業の盛んな群馬県で所望があり、上州旅する瞽女は必ず覚えて歌った。正月には各家庭で蚕の種紙を神棚に供えてその年の豊饒を祈ったが、瞽女は招かれてその前でこの唄を歌ったので「お棚口説」とも称された。 |
唄:金川真美子 正月祝口説 を聴く 4分39秒 mp3(4.27MB) |
鴨緑江節(おうりょっこうぶし) 鴨緑江は朝鮮と中国東北部との国境を流れる川。鴨緑江節はその河で筏師(いかだし)が歌っていた唄。日本では大正8年から流行。瞽女も歌い、民謡の表看板の一つになった。替え唄として、めでたいことほぎの唄が数多く作られた。唄の途中で「アラ」「ヨイショ」「ヨッコラ」「ヨ」などが入り、最後に「チョイチョイチョイガナ、チョイチョイチョイ」という合いの手が入る。最後の長岡瞽女、金子セキ・中静ミサオさんらもこれを得意として歌っていた。 |
唄:横川恵子 鴨緑江節 |