瞽女の調査を始めてまだ間のない昭和45年8月2日、私は中魚沼郡津南町大割野に渡辺キクさんを尋ねた。キクさんは主人とともに鍼按摩治療院を開いておられたが、若いころ瞽女をなさった方であり、その瞽女時代の話を聞きたいために伺ったのである。
キクさんは大正4年10月3日、貝野村姿(現、十日町市姿)で生まれ、数え年3歳のときハシカがもとで目を悪くし、5歳のとき三島郡片貝村(現、小千谷市片貝町)の瞽女の師匠に弟子入りした。それ以来、長岡瞽女の片貝組に所属し、唄芸を習い、やがて巡業に出かけるようになった。しかし、昭和12年23歳のとき瞽女を廃業し、その後按摩術を習い、そのほうで身を立てることになった。
私が訪れたときは数え年56歳であり、けっして瞽女生活が長かったわけでないが、もの知りの方で、長岡瞽女その他について広く教えていただき、その後の瞽女研究に大いに役立った。私にとって終生忘れられない方である。
話をいろいろ聞いたあと、唄のことに及ぶと、幾分かは記憶していて歌えると言われる。巡業中に通りの宿唄としていつも歌っていた唄なら歌えそうだという。これは願ってもないことで、早速録音を取らせてもらいたいと申し出た。しかし、渡辺家は道路に面しており、自動車の行き交う音が録音に入ってしまう可能性がある。また鍼按摩の看板を出しているのでお客が玄関の戸を開けて入らないとも限らない。それを心配された渡辺さんは、唄の録音取りは、自分が南魚湯沢町にいる按摩の師匠の家に遊びに行ったときにでもなさってはどうか、あそこなら邪魔が入らない、という有難い御進言。後日にその按摩の師匠に頼んでもらうことをお願いして、その日渡辺家を辞したのであった。
湯沢町の按摩の師匠というのは、湯元に住んでおられる星野ミサさんであった。明治28年5月20日の生まれだから、そのときは数え76歳。録音取りで厄介になるということで、私もその年の8月17日に電話をして依頼をしたが、気さくな方で、快く了解した[ママ]下さった。
湯沢町の星野家の訪問は少々遅れたが、それは翌46年4月19
日に実現した。同家の二階で、ゆっくりと、雑音が入ることもなく、渡辺キクさん口演の瞽女唄の録音ができた。唄は段物(祭文松坂)の「小栗判官」「八百屋お七」「葛の葉子別れ」と口説の「安五郎口説」で、すこぶる長時間に及んだ。これらは巡業で常々歌っていたとはいえ、歌わなくなって久しいのに、よく覚えておられたものである。記憶力抜群というべきである。ミサさんに前年電話したとき「キクは頭の賢い子で、一度聞いたら覚えてしまう」と褒めておられたが、まさにその通りだと思った。このとき録音させていただいた唄の詞章は後日『長岡市立科学博物館研究報告』第14号(昭和54年3月刊)に紹介した。
湯沢の星野家訪問は、渡辺キクさんの瞽女唄録音取りが目的であったため、ミサさんが初めにお会いしたときの挨拶のあとや唄と唄との間、あるいは唄が終ったあとなどにいろいろと話かけて下さったが、そのことにあまり深入りはしなかった。しかし、話の内容に興深いものがあるので、ここではそれを中心に報告することとしたい。
ミサさんは、小説『雪国』の作者川端康成がその取材のため湯沢を訪れ高半旅館に滞在したとき、按摩師としてその体を揉んでやった人であった。彼女が話すのによれば、昭和11年9月1日から11月中ばまで、一日おきに川端を揉みに行ったという。高半旅館には亀山留吉という男の按摩さんがいて、ミサさんが行く一か月前から揉んでいたが、9月からはミサさんも加わり、一日交代で揉んだのだという。ミサさんが数え年42歳のときであった。
ミサさんは、高半旅館にはじめて訪れたときのことを思い出して、次のように語ってくれた。玄関の入口で、川端先生が「君、按摩かい」と言われた。「白い杖をついているので、按摩とは思わなかったよ」と。そして「僕はこれから町へ行ってくるよ」と言って、銀皮の時計を出してそれを見ながら出て行かれたという。
ミサさんは、揉みに通っていたとき、川端が小説家だとは思わなかったという。行っているとき、放送局の人や卒論を書く学生さんがよく来ていた、と言う。
小説『雪国』では、駒子の家を出た島村が坂道を登りきったところで女按摩に出会い、そのあとその按摩に揉んでもらいながら二人で会話するくだりがある。駒子の身の上のことを語らせる人として女按摩を登場させたようであるが、ここに描かれた女按摩は、川端が自分を実際に揉んでくれた女按摩の星野ミサさんをモデルにしたことは疑いない。星野ミサさんは、川端にとっても、『雪国』にとっても重要な人物であったといえよう。
そこで、星野ミサさんの経歴を簡単に紹介してみよう。わずかの時間の話だから、内容にはおのずと限界がある。
ミサさんは中魚沼郡中深見村(現、津南町中深見)の藤ノ木豊太郎、ケサの三女として生まれた。ここは大割野から中津川を3キロほど上った寒村である。天下の秘境秋山郷の入口だ。5歳のとき失明し、10歳のとき三味線を習い、隣村の船山の師匠から義太夫を習った。ミサさんは「自分は門づけ瞽女でなく座敷瞽女であった」と言っておられた。戸口戸口で「ごめんなんしょう」と言って出歩かなかったというのである。盲芸者で人の宴会の席などに呼ばれて語ったのだという。師匠もそうであったというから、この師弟のグループの稼業方式や唄の内容は一般の門づけ瞽女とはかなり違うものであった。
義太夫節を語る瞽女は珍しい。ミサさんは、15歳のとき師匠が30年持った三味線を4円50銭で買いうけた。瞽女の三味線でも、義太夫の駒を使えば義太夫に合わせられる。撥は太いものを用いる。
17歳のとき、明治44年であるが、島田を結った娘で、姉弟子とおば弟子の3人で一冬上州へ義太夫語りに行ってきた。姉弟子は大割野の陣場下の出身で、目は見えても瞽女になった人であり、松前などをよい声で歌った。おば弟子は大割野から中津川をはさんで対岸になる芦ヶ崎の上がり口に家があった人で、目が見えて手引きに頼んだ人だから芸はうまいとはいえなかった。
ミサさんは、上州は義太夫がもてるところだと聞いたので、親をだまして義太夫語りに行ったと言っておられた。11月17、8日ころ出立し、翌年4月17、8日ころ帰った。中越地方の瞽女は、冬は地元は雪があって巡業ができないから、その時期は無雪の関東へこぞって旅をした。ミサさんらの上州働きはそれに準じたものであった。
上州では義太夫を一晩に三段くらい語った。一段語るのには約1時間かかる。一段語れば50銭もらえた。だが義太夫語りは力を入れるから疲れる。卵を食べさせてもらって語った。そのかわり「太夫さん、太夫さん」と言われてもてはやされた。三味線の皮が傷んで前橋で張り替えた。こうしてミサさんは、このときの稼業で20円をもらい、そのうち4円50銭を家に持ち帰った。しかし、上州働きはそれっきりで、二度と行かなかった。
ミサさんは大正3年、20歳のとき結婚した。その旦那は昭和5年に36歳で亡くなった。それから大割野の角屋でマッサージを習い、昭和六年上越線の開通と同時に湯沢に行き、湯元の中屋旅館でワラジを脱いだ。そこに住み込んで専属の按摩師になったのである。だが間もなく星野松吉という人と再婚し初めは湯沢の宿場町のほうに家を借りて住んだが、昭和11年に湯元に家を作って移り住んだ。その年の秋、湯元の自宅から高半旅館に通って川端を揉んだのである。
『雪国』の中で、島村が女按摩から揉んでもらっているとき、二人の会話の中に遠い座敷の三味線の音を聞いて話をするところがある。その女按摩は、9つのときから20歳まで三味線を習ったが、亭王を持ってから15年も鳴らしていないと述べている。『雪国』の女按摩は、このことでも星野ミサさんの来歴を比較的忠実に取り入れたようである。
星野ミサさんについて、なお付け加えたいことがある。湯沢に落ち着き、家を構えてから、目の不自由な者同士の情によるものであろうが、旅稼業で訪れた瞽女やチョンガレ語りを家に泊め、何くれとなく面倒を見てやったことである。かつての星野家は、盲人芸人のたまり場になっていたのであった。ミサさんは言っていた。「最近はそんなに頻繁には来なくなったが、10年くらい前までは月に10日くらいそういう人たちが来て泊まって、段物を語ったり唄を歌ったりしてくれて楽しかった」と。
それが、そうした人たちの身の振り方まで考えて上げることになり、当時は瞽女稼業ではもう身が立たない御時世になっていたので、幾人かの若い瞽女を自分の弟子にして、按摩を教えた。その初弟子が渡辺キクさんであった。巡業で寄ったのが縁で、星野家に出入りしたが、昭和11年ころキクに点字を教えた。そして15年、キクが26歳のとき、こんどは按摩を教えた。後年キクさんの主人になった人も、ミサさんのもとに8年いて按摩を習った方である。ミサさんが仲人して、昭和25年に結ばれた。
ミサさんは、そのほかにも何人か瞽女を自分の按摩の弟子にした。長岡市深沢町の瞽女加藤イサさんは長岡瞽女深沢組に所属した人であったが、旅巡業のおり星野ミサさんの家に泊まるようになり、ミサさんより年が一つ下なのでほぼ同年ということで仲の良い友達づきあいをするようになった。戦後、イサさんが瞽女の弟子とし手引きにしていた山田静子という人を按摩の弟子にした。個人指導だけではいけないという時代になったので、この弟子には長岡の盲唖学校に上げてマッサージの資格を取らせた。末弟子の五十嵐サカももとは瞽女をしていたが、按摩を教え、自分の家の隣に家を建ててやり、分家のようにして住まわせた。
ミサさんは「瞽女さんが石打まで来ても湯沢へ行くとみんな星野のバサが按摩にしちゃうんで行がねえんようにしようと言って、隠れちゃって来ない人が多くみんな戻ってしまった」と言って笑っておられた。ともかく、ミサさんが多くの瞽女を按摩に鞍替えさせたことは、瞽女の終末期であったにせよ、特異の動きであり、一種の救世の事業であったとみることができよう。
このようにして世話になった星野ミサさんは昭和58年6月5日に数え年89歳で、渡辺キクさんは平成7年1月13日に81歳で、世を去られている。いっときの出会いであるが、思い出深いものがある。感謝の念をささげたい。
出典:『Penac No.22』長岡ペンクラブ編集委員会/編集、長岡ペンクラブ/発行、1997年9月20日
※なお、文中の写真は「長岡瞽女の組織と生態」(長岡市立科学博物館研究報告No.7)より転載。