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長岡の唯敬寺で催される「妙音講」の特集です。

特集 長岡瞽女「妙音講」data


特集 妙音講

「妙音講(みょうおんこう)」って何?

盲目の女旅芸人「瞽女」は年に一度だけ仲間の元に帰ってきました。そして瞽女達を守っていると信じていた弁天様の祭りに本尊の前で師匠共々唄を披露し、腕を競い合いました。それが妙音講です。新しい形で復活した妙音講を今に伝えます。
古式にならって、唯敬寺(えいきょうじ)の三条ご住職の瞽女式目朗誦の後、葛の葉会のメンバーが一年間の精進の成果を披露いたします。

「妙音講」のわかりやすい解説

長岡瞽女・妙音講の由来
「長岡瞽女」は、かつて中越地方一帯から下越地方の南部にかけて、分散、居住していた瞽女の仲間集団です。組織の本部支配所が長岡にあったので、そのように呼ばれていました。明治の中ごろには、400人以上の瞽女がおり、日本最大の瞽女集団を形成しました。
 一派を統率する瞽女頭(ごぜがしら)は代々「山本ゴイ」を襲名し、大工町(現、長岡市日赤町1丁目)に家屋敷を構え、通称「瞽女屋」といわれ、長岡瞽女の集会所、唄の稽古所であり、旅の疲れを癒す休息所にもなっていました。
 瞽女たちが芸の守り本尊をお祭りする集会を「妙音講」といいます。瞽女屋は、その本尊弁天様を祀っていたので、「弁天講」ともいわれていました。しかし、長岡瞽女の妙音講は、瞽女屋山本家で行われましたので、山本ゴイの先祖を供養する法会を兼ねるものでした。
  山本ゴイの先祖は、長岡藩主牧野氏の息女で照姫と称し、生来盲目のため、家老の山本家へ親知らずの養女に遣わされ、成長して元禄(1688〜1704)の末に柳原へ分家にでたと伝えられています。享保10年(1725)より、古志・三島・刈羽・魚沼・頸城五郡内の牧野家領や預り所の村々の瞽女頭とし、通称を「山本ゴイ」と定めたということです。瞽女屋は享保13年に大工町裏に移りますが、妙音講は旧暦3月7日に一派の瞽女全員を集めて催されました。この日は照姫の命日だという言い伝えがありますが、明治時代には、新暦が採用されて、4月17日となりました。たとえ、遠くに旅に出ていようと、前日までには帰ってきて、この妙音講に参加することを義務づけられていました。
 瞽女屋の敷地は285坪あったといいます。建物は明治元年の戊辰長岡戦争で焼失しましたが、まもなく再建されたようです。二階建ての大きな家で、一階の奥座敷には正面に仏壇を納め、床の間に弁天様の掛け軸を掛けて祀っていました。
 当日は、部屋部屋を開け放ち、みんなが参集するなか、山本家菩提寺の唯敬寺の住職を招いて仏壇にお経を上げてもらい、そのあと、「瞽女御条目」を誦んでもらいます。瞽女はみな頭をさげて聞いたものです。弟子瞽女は師匠について芸を習いますが、21年の年季を勤めると一人前となり、出世します。しかし、芸の道は厳しいものです。御条目朗読のあと、瞽女の優惰が沙汰され、掟に照らして賞罰が行われます。素行が悪いと修業の年数を削り取る「年落しの刑」に処せられたといいます。
 以上が終るとお斎(とき)となります。人数が多いので1回に50人ほどがお膳につき、幾番膳も出たといいます。初回のお膳には住職や山本ゴイ、各地の主だった年寄りの親方師匠が座り、二番膳からは、誰でも、順繰りに席についたということです。
 お斎が済むと、今度は弁天様へ唄の奉納があります。紋付を着た山本ゴイと重立(おもだち)の親方4、5人が三味線をそろえて「桜づくし」と「いく春」の2曲を奉納します。これらは、京唄(地唄)で、三味線は本調子、曲は長唄に近く、たいそうめでたい唄であったといいます。
 奉納唄が終ると、「座談会」の席となります。親方衆が若手瞽女の中から唄上手の者を名指しして、唄わせます。次から次へとはやり唄や民謡が飛び出し、唄の競演となります。唄の下手な弟子を持つ師匠は、その弟子が名指しされると困るから早々と長岡の町に遊びに出させたといいます。
 妙音講は各地の親方師匠たちが、顔合わせをするので、旅稼業の仲間の組立て、弟子の貸し借り、巡回地、日程など相談する機会となりました。妙音講の前後には大勢の瞽女が寝泊りするので、布団が間に合わず、布団屋から借りたそうです。瞽女屋からはみだした人は近所の家に泊めてもらったともいいます。瞽女屋の西側を南北に走る道は、通称「瞽女小路」と言われ、妙音講には、露店が出て、終日にぎわいました。つまおり笠や桐油合羽など、瞽女が旅の途中に必要な品を売る店もあって、それを買い求めました。この機会に旅稼業で傷んだ三味線を直すため、三島屋など長岡の楽器店に預ける瞽女もいました。
 長岡瞽女の妙音講は、第二次世界大戦中も行なわれていましたが、昭和20年8月1日夜の米軍機による長岡大空襲で瞽女屋が焼失し、それ以来途絶えました。そこで、瞽女唄ネットワークでは、唯敬寺が瞽女屋山本家の菩提寺であった因縁をもってお願いし、平成7年9月、長岡瞽女で、国の無形文化財に選定された小林ハルさんの瞽女唄を継承する竹下玲子さんを講師に迎えて「瞽女唄教室」を開講しました。そして翌8年5月受講生を中心として、妙音講を開き、それ以来毎年春に開催してきました。
 今年は、妙音講が復活して16年になります。平成11年9月には、受講生の皆さんが独立して「越後瞽女唄・葛の葉会」を結成し、瞽女唄の修得と伝承に心がけています。瞽女唄ネットワークは、これを全面的に支援し、今後とも越後の伝統芸能である瞽女唄のともし火を消さないように努力してまいる所存です。幾分なりとも長岡瞽女の伝灯を受け継ぐものとご理解していただければ幸いです。

(鈴木昭英/記)

「妙音講」に参加して"感想"

魂の呼び声としての瞽女唄
相模市在住 角石よし子

 かねて念願だった妙音講への参加を漸くこの度果たすことが出来、宿題を終えた時のような清々しい気分でおります。既にご丁寧な長岡市内の案内図を頂いておりましたので、なんの苦労もなく、唯教寺に到着することができました。僅か二時間足らずの参加とて、感想などおこがましい限りですが感じたままを少し述べさせていただきます。 先ずは、お寺さんが綺麗で、立派なこと、妙音講は、私の思ったより、参集者も多く、堂内が狭く感じられたこと、また御住職の朗々たる読経と唱和御条目など、私も同行の夫も初体験とて、神妙に致しました。そして、瞽女さん達もこの様であったかとふと思ったりもしました。 唄上げでは、「地震の身の上」大変興味ある口説で、張りのある須藤鈴子さんの声と相俟って迫力満点とてもよかったと思います。
 私が何ゆえに瞽女唄に魅かれるのか、それは、魂の呼び声のように思えるからです。私にとり、それは郷愁以上のものがあります。今後とも、越後の伝統文化の担い手として、葛の葉会の皆さんのご精進に期待するものでございます。残念なことに、今回は次の予定もあり、「巡礼おつる」半ばで席を立つことになり、大変失礼してしまいました。 本年は、妙音講復活十周年に当たるとか、私が故小林ハルさんの伝記に感動して、ネットワークに入会させていただいたのは、確か九年くらい前、今やっと参加が叶えられて、感慨一入です。
 以上まとまりもなく、頼りない感想となりましたが、関係者皆様の御苦労に感謝し、瞽女唄ネットワークの益々のご発展を心よりお祈り申上げます。
「瞽女唄ネットワーク通信第41号」平成17年発行より

 ※ 越後瞽女唄葛の葉会の瞽女唄を聴くことができます。


催しのお問い合わせについて

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